私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
Q289 厄年は本当に存在しますか。
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289 厄年は本当に存在しますか。
Q:私はクリスチャンなので厄年は信じていなかったのですが、42歳になったとたん、二つの病気にかかり、ふと気になりました。日本的な厄年は、クリスチャンにも関係しますか。
A:質問者の方は、今も闘病中なのでしょうか。1日も早い回復をお祈りします。厄年に関して、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、厄年という発想は、聖書にはありません。
厄年の教えは民間信仰の中から生まれたもので、教理的根拠はあいまいです。一般的に言われるのは、体調が変化しやすい年齢に差しかかったら注意しましょうというのが厄年の教えだということです。大厄は、男性が42歳、女性が33歳です。江戸時代の平均寿命は今よりもはるかに短かったので、当時の42歳は高齢者の仲間入りをする年齢だったと言えるでしょう。厄年という発想を頭のどこかに留め、健康に留意するだけなら、問題はないと思います。ただし、それを絶対視し始めると、恐れや束縛を感じるようになりますので、注意が必要です。
2番目に、聖書の教えでは、毎年、毎月、毎日が、素晴らしい時です。
詩篇118篇24節にこうあります。「これは【主】が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう」。キリスト教は、非常に前向きな宗教です。私は、毎朝起きると、「今日も素晴らしい日だ」と自分に言い聞かせ、神様に感謝しています。私たちの肉体は、聖霊が住まわれる「聖霊の宮」です。神様は、その聖霊の宮を健康に保つように、私たちに命じておられます。とは言え、加齢、生活習慣、突発的な事故などにより、病気になることがあります。闘病生活は辛いものですが、それを神の前に静まるチャンスに変えることはできます。
3番目に、聖書は、苦難にも意味があると教えています。
苦難の中でこそ発見できる祝福がいくつもありますが、病気の場合にも同じことが言えます。①病気は、自らの歩みを顧みるチャンスです。②病気は、神に近づくチャンスです。③病気は、神が癒し主であることを体験するチャンスです。④病気は、地上生涯に終わりが来ることを覚え、永遠の視点を持って生きることの重要性を学ぶチャンスです。
詩篇34篇1節のダビデの祈りを、自分の祈りとしようではありませんか。「 私はあらゆるときに、【主】をほめたたえる。私の口には、いつも主への賛美がある」
参考になる聖句
「私はあらゆるときに、【主】をほめたたえる。私の口には、いつも主への賛美がある」
(詩34:1)
厄年を恐れる必要はありません。
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