私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
メシアの生涯(85)—天から下ったパン(1)—
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イエスの3番目の説教を通して、イエスとは誰かを確認する。
「天から下ったパン(1)」
§076 ヨハ6:22~35
1.はじめに
(1)文脈の確認
①湖の東側で5,000千人のパンの奇跡が起こった。
②弟子たちは、舟に乗って湖の西側に向かった。
③イエスは、祈るために山に上られた。
④向かい風のために、弟子たちは湖上で格闘していた。
⑤イエスは水の上を歩き、舟に近づかれた。
⑥ペテロの水上歩行の出来事があった。
⑦イエスが舟に入ると、舟はすぐに目的地に着いた。
(2)この箇所は、5000人のパンの奇跡が起こった日の翌日のことである。
①イエスは、カペナウムの会堂で群衆を教えた。
②ヨハネの福音書にはイエスの説教が7つ出てくる。その3番目のもの。
(3)A.T.ロバートソンの調和表
「人々が期待するメシア像に答えないイエスと、ガリラヤ伝道の崩壊」(§76)
ヨハ6:22~71
2.アウトライン(対比)
(1)肉的動機と霊的動機(22~29節)
(2)旧いマナと新しいマナ(30~35節)
(3)信じない者と父から招かれた者(36~40節)
(4)つぶやきと信頼(41~59節)
(5)棄教と忍耐(60~71節)
今回は、(1)と(2)を取り上げる。
3.結論:イエスの7つの自己宣言
イエスの3番目の説教を通して、イエスとは誰かを確認する。
Ⅰ.肉的動機と霊的動機 (22~29節)
1.22~24節
「その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、ほかにはな
かったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、弟子たちだけ
が行ったということに気づいた。しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食
べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。群衆は、イエスがそこにおられず、
弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペ
ナウムに来た」
(1)イエスが与えるパンを食べた人々は、イエスに注目した。
①舟が一隻しかなく、弟子たちだけがその舟で西岸に向かうのを見ていた。
②イエスが山に上るのを見た。
③イエスはまだ付近にいると思っていたが、そうではないことに気づいた。
(2)そこで、イエスを捜すために西側に移動した。
①ちょうど、テベリヤから数隻の小舟が入って来た。
②それに乗って、カペナウムに移動した。
③彼らは、イエスを熱心に探した。もっと多くのパンをもらおうとした。
2.25節
「そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。『先生。いつこ
こにおいでになりましたか』」
(1)イエスがなぜカペナウムにいるのか、不思議であった。
①いつ、どのようにして、カペナウムに移動したのか、知りたがった。
(2)イエスは、その質問には答えない。
①水上歩行は、弟子訓練のための私的「しるし」であった。
②群衆は、イエスを強引に王に祭り上げようとしていた。
③このままでは、イエスの主張は群衆の熱狂的な動きの中に埋没してしまう。
④そこでイエスは、明確に真理を教える。非常にストレートな教えである。
⑤この教えは、カペナウムの会堂で語られたものである。
3.26~27節
「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがた
がわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きな
さい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認
証されたからです』」
(1)「まことに、まことに、あなたがたに告げます」
①「アーメン、アーメン」という言葉が2回、文章の最初に出てくる。
②この説教の中では、この表現は4回も使われている。
*6:26、32、47、53
(2)イエスは、人々が肉的動機で動いていることを指摘した。
①彼らは、「しるし」の意味を考えることをしなかった。
*イエスはメシアであり、創造主である。
②単にパンを食べて満腹したので、もっとパンをもらうためにイエスを捜した。
③彼らが求めていたのは、パンと政治的解放を与えてくれる預言者モーセである。
(3)「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のた
めに働きなさい」
①労働を否定しているのではない。それが人生のゴールになってはいけない。
②これは、比喩的言葉である。
*朽ちる食物と永遠のいのちに至る食物の対比がある。
*それは、肉的動機と霊的動機の対比でもある。
③永遠のいのちに至る食物とは、霊的食物、神のことばである。
④人の子(メシアである自分)が与えるのは、後者である。
⑤人の子は、父なる神の認証を受けて活動している。
*シールやラベルの役割
4.28節
「すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょ
うか』」
(1)「働き」というキーワードを中心に議論が回る。
①ユダヤ教は、義なる業を強調した。
②ユダヤ人の習性は、「業による救い」を求めることである。
③ここで人々は、何をしたら神に喜ばれるかと問うている。
④自分には、神を喜ばせる業ができるとの思い込みがある。
⑤「業による救い」は、人間には心地よいものである。
(2)ロマ10:2~4
「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識
に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を
立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられた
ので、信じる人はみな義と認められるのです」
5.29節
「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神の
わざです』」
(1)イエスは、たったひとつの神のわざを指摘した。
①それは、「神が遣わした者を信じること」である。
②自分の無力を知り、それを認めること。
③そして、イエスを救い主として信じること。
④ここで教えられているのは、信仰による救いである。
(2)ロマ6:23
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエ
スにある永遠のいのちです」
①罪という主人に仕えるなら、報酬として死が与えられる。
②永遠のいのちは、神からの賜物(プレゼント)である。
*主キリスト・イエスを信じることが、その贈り物を受け取ることである。
Ⅱ.旧いマナと新しいマナ (30~41節)
1.30~31節
「そこで彼らはイエスに言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しる
しとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの父祖たちは
荒野でマナを食べました。「彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた」と書いてあると
おりです』」
(1)人々の邪悪な心が見える。
①イエスは数々の「しるし」を行われた。
②5000人のパンの奇跡を行われた。
③その翌日、人々は何もなかったかのように、さらに「しるし」を求めた。
④自分たちの要求を満たすために、イエスを操ろうとしている。
⑤見たら信じてやるという提案であるが、これは逆である。
⑥信じる→見えるようになる。見る→信じる、ではない。
(2)人々は、詩78:24~25を引用した。
「食べ物としてマナを、彼らの上に降らせ、天の穀物を彼らに与えられた。それで人々
は御使いのパンを食べた。神は飽きるほど食物を送られた」
(3)人々は、イエスよりもモーセの方が偉大だと考えた。
①モーセは、40年間、イスラエル民族を養った。
*イエスは5000人をたった一度養っただけだ。
②モーセは、天からのパンを与えた(マナ)。
*イエスはすでに地上に存在しているパンを増やしただけだ。
2.32~33節
「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあ
なたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがた
に天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、
世にいのちを与えるものだからです』」
(1)ユダヤ人の3つの誤解を解く。
①マナを与えたのはモーセではなく、「わたしの父」である。
*「わたしの父」とは、イエスの神性宣言である。
②父は今も、パンを与えておられる。
③父が今与えるパンは、「天からのまことのパン」である。
*旧いマナは、肉体を養うためであり、一時的なものである。
*新しいマナは、魂を養い、永遠のいのちを与える真の食物である。
(2)イエスの自己啓示
①天から下って来た「神のパン」とは、イエスのことである。
②イエスはモーセよりも偉大である。
③イエスは荒野のマナよりも偉大である。
④旧いマナは、イスラエル民族の肉体的生存を可能にした。
⑤新しいマナは、全人類に永遠のいのちを与えるものである。
3.34~35節
「そこで彼らはイエスに言った。『主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。』イ
エスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがな
く、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません』」
(1)霊的に盲目な人々
①彼らは、イエスが「神のパン」であることを理解しなかった。
②それで、「いつも、ただで食べられるパンが欲しい」と願ったのだ。
③サマリヤの女と似ている。
「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その
水を私に下さい」(ヨハ4:15)
④彼らには、真の信仰はない。
(2)「わたしがいのちのパンです」
①これは、イエスの神性宣言である。
②もし人がこの言葉を発したなら、その人は愚か者である。
*私たちは、自分の飢えや渇きを癒すことはできない。
*ましてや、全人類の飢えや渇きを癒すことなどできない。
結論:イエスの7つの自己宣言
1.ヨハ6:35
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ
る者はどんなときにも、決して渇くことがありません」
2.8:12
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのち
の光を持つのです」
3.10:7、9
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です」
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入
りし、牧草を見つけます」
4.10:11
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」
5.11:25
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」
6.14:6
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひ
とり父のみもとに来ることはありません」
7.15:5
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人
の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あな
たがたは何もすることができないからです」
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