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ルカの福音書(78)神の国と再臨17:20~37
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神の国と再臨について学ぶ。
ルカの福音書 78回
神の国と再臨
17:20~37
1.はじめに
(1)文脈の確認
①ルカは、エルサレムへの旅という枠組みの中に、種々の教えを配置している。
②ルカ17章のテーマは、弟子道に関する教えである。
*これは、神の国が成就することを前提とした逆転の発想である。 ③この箇所では、神の国と再臨のテーマが語られる。
*パリサイ人たちの質問がきっかけとなって、弟子訓練の教えが与えられる。
(2)ルカ17:20~18:8の内容
①パリサイ人たちの質問とイエスの短い回答(20~21節)
②弟子たちに向けた長い教え(22~37節)
③懇願するやもめのたとえ話(18:1~8節)
2.アウトライン
(1)パリサイ人たちの質問とイエスの短い回答(20~21節)
(2)弟子たちに向けた長い教え(22~37節)
3.結論
(1)イエスが語る神の国とは何か。
(2)ここで再臨のテーマが出てくるのはなぜか。
神の国と再臨について学ぶ。
Ⅰ. パリサイ人たちの質問とイエスの短い回答(20~21節)
1. 20節a
Luk 17:20a パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、
(1)パリサイ人たちは、神の国の到来に関して非常な興味を持っていた。
①バプテスマのヨハネは、「神の国は近づいた」と語っていた。
②イエスも、「神の国は近づいた」と語っていた。
③パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかと尋ねたのは当然のことである。
(2)当時のユダヤ教の考え方
①ユダヤ人たちは、世が混乱したとき、神が奇跡的に介入されると信じていた。
②メシアが到来し、ローマの圧政からユダヤ人たちを救う。
③その後、メシアを王とする神の国(メシア的王国)が地上に設立される。
④パリサイ人たちは、「外面的なしるし」と「政治的混乱」を待ち望んでいた。
⑤彼らには、初臨と再臨の区別が分からなかった。
(3)現在のキリスト教の考え方
①多くの者が、神の国について無関心である。
②神の国を地上に成就する文字どおりの王国とは考えていない。
③神の国を比ゆ的に解釈する傾向が強い。
2.20b~21節
Luk 17:20b イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
Luk 17:21
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
(1)イエスは、パリサイ人たちの神の国に関する神学的理解を否定された。
①神の国は、彼らが考えているような方法で来るものではない。
(2)「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」
①「the kingdom of God is within you.」(KJV、ASV)
②「the kingdom of God is in the midst of you.」(RSV)
③神の国が心の中にあるという意味ではない。
*パリサイ人たちは信者ではない。
*この点を理解しておかないと、神の国の比ゆ的解釈が正当化される。
④彼らのただ中に立っているイエス自身が、神の国の代表であり象徴である。
⑤そのイエスを、パリサイ人たちは受け入れなかった。
Ⅱ.弟子たちに向けた長い教え(22~37節)
はじめに
(1)「オリーブ山の説教」(マタ24:1~51)の内容と似ている。
①ルカは、将来に関する教えをさほど取り上げていない。
②12:35~48、14:7~24、21:5~33
1.22~23節
Luk 17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。
Luk 17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。
(1)神の国はすでに来ているのか、将来来るものなのか。
①パリサイ人たちに向っては、すでに来ていると言われた。
②弟子たちに向っては、再臨によって成就するものと教える。
(2)まずイエスは、初臨と再臨の間の時代に言及する。
①「人の子の日を一日でも見たいと願っても、」
*「人の子」とはメシアのことである(ダニ7:13~14)。
*弟子たちは、神の国が成就した様子を一日でも見たいと願う。
②「見られない日が来ます」
*再臨の前に、激しい迫害が起こる。
③人々のことばに惑わされてはならない。
*偽キリストがあちこちに現れる。
2.24~25節
Luk 17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。
Luk 17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。
(1)メシアの再臨は、明確な形で実現する。
①メシアの再臨は、すべての人が認識できる形で実現する。
②稲妻のひらめきをすべての人が認識するのと同じである。
③メシアの再臨は、後から気がつくようなものではない。
(2)その前に、メシアはこの時代の人たちに苦しめられ、殺される。
①不信仰なユダヤ人たちは、イエスを拒否し、十字架につけることを要求する。
4.26~27節
Luk 17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。
Luk 17:27
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
(1)ノアの日と人の子の日の対比
①ノアが箱舟に入るその日まで、人々はノアの警告を無視した。
*彼らは、最後まで普段どおりの生活を続けた。
*彼らは、神の裁きに対する備えができていなかった。
②再臨の日まで、人々は裁きのメッセージを無視する。
*彼らは、患難期が始まるまで普段どおりの生活を続ける。
*彼らは、地上に下る神の裁きに対する備えができていない。
5.28~29節
Luk 17:28
また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、
Luk 17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
(1)ロトの日に起こったことは、ノアの日の出来事の内容を補足している。
①ソドムの人たちは、神の裁きが下るまで普段どおりに生活していた。
②ロトがソドムから出て行ったその日に、神の裁きが下った。
③人々は、神の裁きに対する備えができていなかった。
④全員が滅びた。
6.30~31節
Luk 17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。
Luk 17:31
その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。
(1)人の子が現れる日にも、同じことが起こる。
①患難期が来ると、イスラエルの地に住む者はすぐに行動を起こすべきである。
②彼らは、逃れの場に向ってすぐに移動しなければならない。
7.32~33節
Luk 17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
Luk 17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
(1)ロトの妻から学ぶ教訓
①彼女は、裁きの厳しさを過小評価した。
②彼女は、逃れの場に行くことを躊躇した。
③彼女は、古い生活に執着した。
④そのために、塩の柱になってしまった。
(2)肉のいのちを救おうとして魂のことを忘れる人は、肉のいのちさえも失う。
①患難期に、メシアへの忠実さのゆえにいのちを失う者は、永遠のいのちを得る。
8.34~35節
Luk 17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。
Luk 17:35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」
(1)内容は、不信者と信者の分離である。
①いかに親しい間柄であっても、1人は取られ、もう1人は残される。
*不信者は、裁きのために取られる。
*信者は、残されて神の国に入る。
②携挙のときとは正反対のことが起こる。
(2)36節は、欠落している。
①書記の誤りで、マタ24:40が付記されたのであろう。
9.37節
Luk 17:37
弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」
(1)弟子たちは、この裁きがどこで起こるかを知りたがった。
①イエスは、場所を教えなかった。
②イエスは、どういう「しるし」を捜すべきかを教えた。
(2)「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」
①「死体」とは、患難期の終わりにおけるイスラエルの民の状態である。
②「禿鷹」とは、イスラエルの民を襲う軍勢である。
③イスラエルの民は、異邦人の軍勢に取り囲まれる。
④その場所は、ボツラ(現在のヨルダンにあるペトラ)である。
*ミカ2:12~13、エレ49:13~14、イザ34:1~8、63:1~6
結論
1.イエスが語る神の国とは何か。
(1)イエスは、ユダヤ人たちにメシア的王国を提供された。
(2)ユダヤ人たちは、イエスを拒否した。
(3)それ以降、奥義としての王国の時代に移行した。
(4)これは、目に見えない、霊的な王国である。
①終末的な希望であるメシア的王国とは異なる。
(5)これは、「キリスト教界」のことである。
(6)これは、麦と毒麦が同時に育つ時代である。
(7)これは、「種蒔きのたとえ」で表現される時代である。
2.ここで再臨のテーマが出て来るのはなぜか。
(1)イエスの初臨の期間が終わろうとしている。
(2)初臨と再臨の間に別の時代が入って来る。
(3)奥義としての王国の時代がそれである。
(4)これは、教会時代(恵みの時代)である。
(5)その先に、再臨とメシア的王国の成就が待っている。
①再臨の前に、患難期が地上を襲う。
②携挙は、いつでも起こり得る。
③再臨は、患難期の後に起こる。
④患難期の訪れは、多くの人たちにとって予想外の出来事となる。
⑤地上に住む人たちは全員、神の裁きに苦しむことになる。
⑥イエスを信じて、携挙に与る人は幸いである。
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