私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
メシアの生涯(139)—ラザロの復活(1)—
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死といのちについて考えてみる。
「ラザロの復活」(1)
ヨハ11:1~27
1.はじめに
(1)文脈の確認
①イエスは、ヨルダン川の東側、ペレアで活動している。
②ユダヤに行くのは、危険である。国の指導者たちが、イエスの命を狙っていた。
③ベタニヤは、エルサレムの東数キロのところにある村である。
④そこは、マルタ、マリア、ラザロが住んでいた村である。
⑤イエスがいた場所から徒歩で約1日の距離である。
⑤ベタニヤで、イエスは公生涯最後の大いなる奇跡を行われる。
(2)A.T.ロバートソンの調和表
§118 イエスはラザロを死から甦らせる(ヨハ11:1~44)
(3)死からの復活
①イエスは、同様の奇跡を行っていた(厳密には蘇生)。
*マコ5:41~42 会堂管理者の娘
「タリタ、クミ」
*ルカ7:14~15 ナインのやもめのひとり息子
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」
②それらの奇跡との違い
*死んですぐの復活と、4日目の復活
*数節と、44節
*少数の目撃者と、多数の目撃者
⑤ラザロの復活は、「ヨナのしるし」である。
*イエスのメシア性を証明する奇跡。公生涯で最大の奇跡と言ってもいい。
*国の指導者たちは、信仰によって応答しなければならない。
2.アウトライン
(1)イエスと弟子たち(1~16節)
(2)イエスとマルタ(17~27節)
(3)イエスとマリア(28~32節)
(4)イエスとラザロ(33~44節)
(今回は、(1)と(2)を取り上げる)
3.結論
(1)聖書が教える死の意味
(2)光と闇の葛藤
死といのちについて考えてみる。
Ⅰ.イエスと弟子たち(1~16節)
1.1~3節
Joh 11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
Joh 11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
Joh 11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
(1)ヨハネは、マリアを中心にこの一家を紹介している。
①「主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤ」と説明している。
②イエスは、ベタニヤ村のこの一家を愛された。
③取るに足りないこの村が、イエスを愛する者たちがいたので有名になった。
(2)ラザロが重病になった。
①ラザロの罪が問題だという指摘は、全くない。彼は義人である。
②姉妹たちは、イエスのところに使いを送った。そこまでの距離は、1日である。
③「あなたが愛しておられる者」というのが、イエスへの懇願のベースにある。
④ところが、ラザロはその直後に亡くなったようである。
2.4~6節
Joh 11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
Joh 11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
Joh 11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
(1)ラザロの病気は、死で終わるものではない。
①この病気の最終結末は、肉体の死ではない。
②ラザロは復活し、神の栄光が現れる。
③それによって、神の子は栄光を受ける。
(2)ここには、アイロニー(皮肉)がある。
①父なる神へのイエスの従順が示された。
②イエスはラザロにいのちを与えるが、そのことがイエスを十字架の死に導く。
③十字架の死は、イエスの栄光の現れである。
(3)イエスは、なおもその場所に2日とどまった。
①「わたしの時がまだ満ちていないからです」(ヨハ7:8)
②イエスは、父なる神のタイムテーブルに従って行動する。
3.7~10節
Joh 11:7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。
Joh 11:8 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
Joh 11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
Joh 11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」
(1)弟子たちの認識
①もう一度ユダヤに行くのは、危険である。
②生まれつきの盲人の癒しの後で、ユダヤ人たちはイエスに石を投げようとした。
②そこで弟子たちは、イエスがベタニヤに行かないように説得する。
(2)イエスの認識
①ベタニヤに行くのは、そんなに危険なことではない。
②神の御心の内を歩めば、つまずくことはない。
4.11~12節
Joh 11:11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
Joh 11:12 そこで弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
(1)イエスの認識
①ラザロは「わたしたちの友」。イエスの命令を実行する人は、友である。
②ラザロは眠っている。死んだという意味。
*新約聖書では、眠りは肉体の状態に言及する言葉である。
*信者にのみ適用する言葉である。
③眠りからさましに行く。復活させるために行く。
(2)弟子たちの認識
①眠っているなら、行かなくても助かるでしょう。
②ベタニヤに行かないための口実を設けている。
5.13~15節
Joh 11:13 しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
Joh 11:14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。「ラザロは死んだのです。
Joh 11:15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
(1)イエスは明確に意図を明らかにされた。
①ラザロは死んだ。
②自分がその場に居合わせなかったことを喜んでいる。
③ラザロの死を喜んでいるのではない。
④もしイエスがそこにいたなら、ラザロは死んでいなかった。
*イエスの前で人が死んだという記録はない。
⑤ラザロが死んでいなかったら、復活の奇跡が行われることもなかった。
(2)イエスは、「あなたがたが信じるためには」と言われる。
①弟子たちはすでに信じていたが、まだ信仰が成長する余地があった。
6.16節
Joh 11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
(1)トマスは、疑り深い人物として有名である。
①ここでは、自己犠牲の精神を表明し、リーダーシップを発揮している。
②しかしこれは、落胆から出た開き直りの言葉のようである。
(2)この言葉もまた、アイロニー(皮肉)である。
①彼は、メシアの死と自分たちの死の違いを理解していない。
②彼の意図とは異なるが、結果的に、弟子たちのほぼ全員が殉教の死を遂げる。
Ⅱ.イエスとマルタ(17~27節)
1.17~19節
Joh 11:17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。
Joh 11:18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。
Joh 11:19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。
(1)ラザロは4日間墓に入っていた。
①使者がイエスのところに来るのに1日かかる。
②イエスは、そこに2日留まった。
③イエスがベタニヤに来るのに1日かかった。
④パリサイ人たちは、死者の魂は死後3日間漂っていると教えた。
⑤4日経つということは、蘇生の見込みがなくなったという意味である。
⑥当時の埋葬法は、2段階に分かれていた。
*遺体を麻布にくるんで埋葬した。
*後に、遺骨を石棺に納めた。
(2)ベタニヤはエルサレムから3キロメートルほどである。
①エルサレムからも人々が来ていた。
②イエスの公生涯の終わりに起こることを予感させる。
(3)大ぜいのユダヤ人が、遺族を慰めるためにそこに来ていた。
①ユダヤ教では、「シバ」(7日間)という習慣が発展した。
②今でも、この習慣が生きている。
(例話)第60回聖地旅行での体験
2.20~22節
Joh 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。
Joh 11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
Joh 11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
(1)マルタは行動的であり、マリアは思索的である。
(2)マルタの言葉は、信仰告白である。
①彼女は、イエスは癒しの力を持っていることを信じていた。
*これは、限定的信仰である。イエスは距離を乗り越えて奇跡を行う。
②イエスを責める意図はない。イエスに情報が届く前に、ラザロは死んでいた。
③イエスの上に、神の祝福があることを信じていた。
3.23~24節
Joh 11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
Joh 11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
(1)イエスの認識
①ラザロはすぐに甦る。
②マルタの信仰を引き上げようとしている。
(2)マルタの認識
①ラザロは、終わりの日に甦る。
4.25~26節
Joh 11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
Joh 11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
(1)「わたしは、○○です」はイエスの神性宣言である。
①「わたしは、よみがえりです。いのちです」は、第5の神性宣言。
(2)イエスのことばのパラドックス
①肉体の死が、新しいいのちをもたらす。
②イエスを信じる者は、肉体的に死んでも、霊的には永遠に生きる。
③霊的いのちは、やがて栄光の体に結びつく。
5.27節
Joh 11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
(1)マルタの信仰告白
①イエスはメシアである。
②イエスは神の子である。
③イエスは、世に来られるお方である。
「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。
『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に』」
(ヨハ12:13)
(2)マルタの信仰の限界
①ラザロがすぐに甦るという信仰はない。
結論
1.聖書的死の意味
(1)死は、罪がもたらした悲劇である。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入
り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯
したからです」(ロマ5:12)
(2)肉体の死は、霊的死に関する実物教育である。
*肉体の死は、霊と肉体の分離である。
*霊的死は、神からの分離である。
(3)イエスは、人々にいのちを与えるために来られた。
「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わた
しが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハ10:10)
(4)2種類の人たちがいる。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見る
ことがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハ3:36)
①イエスを信じて命を得る人たち
②イエスを拒否する人たち
*最後は、「火の池」に行く。第2の死である(黙20:14~15)。
2.光と闇の葛藤
「イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずく
ことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光
がその人のうちにないからです』」(ヨハ11:9~10)
(1)これは、ヨハネの福音書のサブテーマである。
(2)直接的な意味
①太陽が出ている時間は、日に12時間ある。
②その時間に歩けば、光があるので、歩いてもつまずかない。
(3)適用
①自分は、父なる神の御心の中を歩いている。
②それゆえ、安全である。
③父なる神の御心の外を歩いている人は、危険な状態にある。
④それは、闇の中を歩くことである。
⑤神の御心に従っている人には、神が定めた時以外に死が襲うことはない。
⑥イエスがおられる間に信じなければ、やがて闇が襲うようになる。
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