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メシアの生涯(132)—パリサイ人の家での教え—
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後の者が先になった経緯について、学ぶ。
「パリサイ人の家での教え」
ルカ14:1~24
1.はじめに
(1)文脈の確認
①イエスは、エルサレムからペレアに移動する。
②次に、ペレアからエルサレム(ベタニヤ)に向かう。
③その途上で、「後の者が先になる」というメッセージがなされた。
*エルサレムの宗教的指導者たちではなく、ペレアの庶民たちが先になる。
*ユダヤ人ではなく、異邦人が先になる。
④きょうのルカの箇所はその続きで、同じテーマを取り上げている。
*前回は、神の国に入れない者に焦点が合わされた。
*今回は、神の国に入れる者に焦点が合わされる。
⑤場面は、パリサイ人の家での食卓である。
*招待されたラビであるイエスが、食卓に着く人たちに講話する。
*私たちは、その食卓での講話を立ち聞きする特権に与ろうとしている。
*いつものように、ルールに従ってイエスのことばを解釈する必要がある。
(2)A.T.ロバートソンの調和表
§114 パリサイ派のある指導者の家で、安息日に癒しを行うイエス
2.アウトライン
(1)安息日に関する教え(1~6節)
(2)招かれた客への教え(7~11節)
(3)招いた主人への教え(12~14節)
(4)自信がある人への教え(15~24節)
3.結論:
(1)謙遜の究極的な意義
(2)謙遜が報われるタイミング
後の者が先になった経緯について、学ぶ。
Ⅰ.安息日に関する教え(1~6節)
1.1~2節
Luk 14:1 ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。
Luk 14:2 そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
(1)ユダヤ人にとっての食事は、親しい交わりの機会である。
①食事をともにする者同士の間に、欺きや裏切りがあるのは忌むべきことである。
②安息日の食事の場合は、なおさらそうである。
*高名なラビを招き、講話をしてもらう。
③ここでは、その忌むべきことが、起こっている。
(2)イエスは、パリサイ派のある指導者の家に招かれた。
①主人は、パリサイ派の頭である。
②パリサイ人たちは、これまで以上に真剣にイエスを罠にかけようとしている。
(3)イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。
①「水腫」とは、身体の組織液が異常に多量にたまった状態を指す。
②水腫の人は、招待客である。
*彼は、部屋の隅にいた傍観者ではない。
③水腫の人をそこに置いたのは、イエスを捕らえるための罠である。
2.3~4節
Luk 14:3 イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。
Luk 14:4 しかし、彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いていやし、帰された。
(1)イエスは直ちに質問した。
①イエスは、彼らの心の内を知っていた。
②「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」
③彼らは、命の危険がない限り、安息日に人を癒すのはよくないと教えていた。
(2)律法学者やパリサイ人たちは、沈黙していた。
①彼らの心の中にあった答えは、「よくないことだ」であった。
②しかし、それを論証する理屈が見つからないので、黙っていた。
③ラビ的議論では、沈黙は「敗北」か、「無知」を意味している。
④そこでイエスは、その人を抱いていやし、帰された。
3.5~6節
Luk 14:5 それから、彼らに言われた。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」
Luk 14:6 彼らは答えることができなかった。
(1)エッセネ派の人たちは、安息日に家畜を救うことを禁じた。
①しかし、パリサイ人たちはそれを許可した。
②家畜を助けることは、金銭の問題と関わっている。
(2)イエスは、ラビ的議論を2段階で展開している。
①パリサイ人たちが同意する点を確認する。
*彼らは、安息日に家畜を救うことを許可していた。
②「大から小への議論」(カル・バホメル)
*家畜を助けるなら、なおさらのこと、人間を助けるはずである。
(3)彼らは、沈黙した。
①答えることはできなかったが、怒りにさらに火が付いたことであろう。
②自分たちの偽善が明るみに出されたから。
(4)その人は、儀式的な汚れのある人であった。
①イエスは、誰が神の国に入るかという議論への道備えをしておられた。
②儀式的な汚れのある人は、神の国に入れないと考えられていた。
Ⅱ.招かれた客への教え(7~11節)
1.7節
Luk 14:7 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。
(1)招かれた客たちが、われ先にと上座を選んでいた。
①主人に近い席ほど、上座(栄誉ある席)である。
(2)このたとえは、イエスが説いてきた神の国のメッセージと関連性がある。
2.8~10節
Luk 14:8 「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、
Luk 14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。
Luk 14:10 招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
(1)婚礼の披露宴では、自分から上座に座ってはならない。
①身分の高い人が招かれているかもしれない。
②「この人に席を譲ってください」と言われ、恥をかいて末席に行くことになる。
(2)最初から末席に着きなさい。
①恐らく主人が来て、「どうぞもっと上席にお進みください」と言う。
②そのときは、万座の中で面目を施すことになる。
3.11節
Luk 14:11 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
(1)これが、このたとえの結論である。
①箴25:6~7の引用
「王の前で横柄ぶってはならない。偉い人のいる所に立っていてはならない。高
貴な人の前で下に下げられるよりは、『ここに上って来なさい』と言われるほうが
よいからだ」
(2)前回のテーマの続き
「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになる
のです」(ルカ13:30)
Ⅲ.招いた主人への教え(12~14節)
1.12節
Luk 14:12 また、イエスは、自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。
(1)イエスは、招待客だけでなく、主人の振る舞いも観察していた。
①その町の有名人、有力者、家族、親戚などを招いていた。
②お返しをする力がある人たちを招いても、それは義なる行為ではない。
2.13~14節
Luk 14:13 祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。
Luk 14:14 その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」
(1)お返しができない人たちを招くのが、義なる行為である。
①貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たち
(2)この行為によって義とされるのではなく、信仰によって義とされる。
①行為は、義とされていることの証拠である。
②その人は、義人の復活に与る。
③そのときにお返しを受ける。
④それゆえ、自分に都合のよい人だけを招くのはよくないことである。
Ⅳ.自信がある人への教え(15~24節)
1.15節
Luk 14:15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った。
(1)この人は、食卓に着いている客の全員が神の国で食卓に着くと思い込んでいる。
①そこでイエスは、そこにいる人の多くが、神の国の食卓に着かないと教える。
②そればかりか、思いがけない人たちが、神の国の食卓に着くと教える。
*罪人、取税人、遊女、汚れた者など、社会から見放された者たち
*異邦人たち
2.16~17節
Luk 14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
Luk 14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。
(1)宴会を催し、大ぜいの人を招くのは、神である。
①神の国が宴会にたとえられている。
(2)時が満ちた時、主人はしもべを遣わし、招いておいた人々に声をかけた。
①しもべは、バプテスマのヨハネである。
②招いておいた人々は、イスラエルの霊的指導者たちである。
③ところが彼らは、その招きを断った。
3.18~20節
Luk 14:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』
Luk 14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』
Luk 14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
(1)畑を買ったので、見に出かける。
①宴会を準備した主人に対して、実に失礼な言い訳である。
(2)5くびきの牛を買ったので、ためしに行く。
①金持ちなので、しもべがいたはずである。
(3)結婚したので、忙しい。
①兵役なら、1年間免除される。
②宴会があることは、早くから知っていたはずである。
4.21~22節
Luk 14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』
Luk 14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
(1)主人は怒って、別の人たちを招くことにした。
①「貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たち」
②これは、一般庶民のことである。
③確かに、個人的にイエスを信じる一般のユダヤ人たちが起こされた。
(2)しかし、まだ空席があった。
4.23~24節
Luk 14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
Luk 14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」
(1)「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理
にでも人々を連れて来なさい」
①これは、招待を受け入れる異邦人たちである。
②「無理にでも」とは、征服する力ではなく、説得する力である。
(2)招待されていた人たちは、神の国に入れない。
①イエスはこの人たちを、「悪い時代(世代)」と呼んでいた。
②イエスがメシアであることを否定した人たちである。
(3)このたとえは、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」
というモチーフと関係したものである。
結論
1.謙遜の究極的な意義
「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるから
です」(ルカ14:11)
(1)イエスは、旧約聖書で教えられている霊的原則に言及している。
①特に、終末論的原則である。
②「【主】の日」(裁きの日)に適用される原則である。
(2)イザヤの預言
「まことに、万軍の【主】の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかか
り、これを低くする」(イザ2:12)
(3)エゼキエルの預言
「このとき、野のすべての木は、【主】であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高
くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。【主】であるわ
たしが語り、わたしが行う」(エゼ17:24)
「神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてが
すっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる」(エゼ21:26)
(4)マリアは、メシアの働きに中に、その霊的原則の成就を見た。
「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いも
ので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました」(ルカ1:51~53)
(5)神の招きは、異邦人にも与えられた。
①異邦人の中の多くの人が、その招きを拒否する。
②その理由は、高ぶりであり、自己充足である。
*私は、自分で生きていける。
*私は、たくさんの仕事を抱えている。
*私は、私生活で多忙にしている。
*私には、別の信条や信仰がある。
*これらの言い訳は、御子を犠牲にしてくださった神に対して失礼である。
③救われる人とは、自らを低くする人である。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くため
ではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(ルカ5:31~32)
2.謙遜が報われるタイミング
「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受
けるからです」(ルカ14:14)
(1)「義人の復活」はいつ起こるのか。
①携挙の時
*死者は墓の中から復活し、天に上げられる。
*生きている人は、そのまま栄光の体に変えられ、天に上げられる。
②大患難時代の終わりの時
*旧約聖書の聖徒たちが復活する。
(2)謙遜は、クリスチャンの資質である。
(例話)エレベーターで一番下まで降りれば、後は上に行くしかない。
(3)キリストは、クリスチャンの手本である。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのう
ちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てら
れないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになら
れました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字
架の死にまでも従われました」(ピリ2:5~8)
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