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ヨハネの福音書(7)イエスとバプテスマのヨハネ―並行した奉仕-ヨハ3:22~36
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このメッセージは、イエスの卓越性について学ぼうとするものである。
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ヨハネの福音書(7)
イエスとバプテスマのヨハネ
―並行した奉仕-
ヨハ3:22~36
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
*最初の宮きよめ(2:13~22)
*人の心の中を見抜くイエス(2:23~25)
*ニコデモとの対話(3:1~15)
*ヨハネによる福音の要約(3:16~21)
*イエスをあがめるバプテスマのヨハネ(3:22~30)
*イエスの卓越性(3:31~36)
2.この箇所の注目点
(1)イエスの奉仕とバプテスマのヨハネの奉仕が、一時的に重なる。
(2)バプテスマのヨハネは、イエスをあがめる。
(3)著者ヨハネは、イエスの卓越性を証明する。
3.アウトライン
(1)イエスをあがめるバプテスマのヨハネ(3:22~30)
(2)イエスの卓越性(3:31~36)
4.結論
(1)ユダヤ式結婚のたとえ
(2)私たちに与えられている奉仕
このメッセージは、イエスの卓越性について学ぼうとするものである。
Ⅰ.イエスをあがめるバプテスマのヨハネ(3:22~30)
1.22節
Joh 3:22
その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。
(1)イエスはエルサレムを離れた。
①ニコデモとの対話はエルサレムで起こったことである。
②エルサレムもまた、ユダヤの地にある。
③ここでの「ユダヤの地」とは、ユダヤ地方の田舎、荒野であろう。
(2)イエスはそこで、バプテスマのヨハネと同じような働きを展開した。
①バプテスマを授けていたのは、イエスの弟子たちであった(4:2)。
②これは、悔い改めのバプテスマである。
③イエスは、12使徒を任命する前から、弟子たちを訓練していた。
2.23~24節
Joh 3:23
一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。
Joh 3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。
(1)ヨハネの活動の場
①「サリムに近いアイノン」がどこか、明確ではない。
②ガリラヤ湖と死海の間のどこかである。
③恐らく、シェケムの東5キロメートルの辺りであろう。
④「そこには水が豊かにあったからである」
*乾季になると、ヨルダン川の水は南に行くほど少なくなった。
*それでヨハネは、北に移動して、そこで活動した。
*ユダヤ的文脈では、浸礼が重要であることが分かる。
(2)「人々はやって来て、バプテスマを受けていた」
①短期間ではあるが、イエスの奉仕とヨハネの奉仕が重なった。
②ユダヤからサマリアにかけて、大いに賑わったことであろう。
*ともに弟子たちがいた。
*ともに群衆が取り囲んだ。
*ともに洗礼を授けた(イエスの場合は、弟子たちが)
*ともに、悔い改めと、神の国の到来を説いた。
(3)「ヨハネは、まだ投獄されていなかった」
①ヨハネの投獄と斬首は、イエスの公生涯の転機となる。
②ヨハネは、共観福音書の情報を前提に、この文章を書いている。
*マタ14:1~12、マコ6:14~29
③共観福音書は、ヨハネの投獄をイエスの公生涯の始まりと位置づける。
④ヨハネの福音書は、初期ガリラヤ伝道と初期ユダヤ伝道から始める。
3.25節
Joh 3:25
ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。
(1)論争の当事者
①ヨハネの弟子の何人か
②あるユダヤ人
(2)彼らは、「きよめについて論争をした」。
①具体的な内容は、分からない。
②エッセネ派の洗礼があった。
③パリサイ派の清めがあった(手足の清めから、器の清めまで)。
④この上、なぜヨハネやイエスの洗礼が必要かという議論があったのか。
⑤もし必要だとしたら、イエスの洗礼のほうが、価値があるのではないか。
⑥この論争は、次の26節の背景説明になっている。
4.26節
Joh 3:26
彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」
(1)弟子たちは、ヨハネのために、嫉妬を感じた。
①「あの方」と言い、イエスという名を意図的に避けている。
②ヨハネがイエスを認定したことを、柔らかく責めている。
③「あの方」のほうが、人気が出ている。
④「皆」というのは、誇張法である。
⑤共同訳では、弟子たちは「あの人」、ヨハネは「あの方」と言っている。
(2)ヨハネの弟子たちは、ヨハネの奉仕の目的を忘れていた。
①彼らは、ヨハネの影響力が縮小していくことに耐えられなかった。
5.27~28節
Joh 3:27
ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
Joh 3:28
『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。
(1)ヨハネは、弟子たちが忘れてしまった真理を思い出させている。
①各人の奉仕の範囲は、神が決めておられる。
②イエスの奉仕が拡大しているのは、神がそれを許しておられるから。
(2)ヨハネは、自分がキリストだと言ったことはない。
①ヨハネの奉仕は、メシアの先駆者としてのそれである。
②ヨハネの弟子たちは、その証しを何度も聞いてきた。
6.29節
Joh 3:29
花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
(1)ヨハネは、ユダヤ的たとえを語る。
①自分は、花婿の友人である。
②花婿が主役であり、自分は脇役である。
③自分は花婿の援助役に召されている。
④花婿の喜びは、自分の喜びである。
7.30節
Joh 3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」
(1)これは究極的な謙遜のことばである。
①これは、神から与えられた役割を理解した人のことばである。
②彼には、自分はメシアの先駆者であるという認識があった。
(2)このことばは、すべての奉仕者への教訓である。
①弟子のゴールは、偉大な奉仕を誇ることではない。
②神への従順と、イエスをあがめることが、弟子の喜びとなるべきである。
(3)いつまでもバプテスマのヨハネに固執した弟子たちがいた。
①使18:24~26
*アポロは、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
②使19:1~7
*エペソには12人のバプテスマのヨハネの弟子たちがいた。
Ⅱ.イエスの卓越性(3:31~36)
(1)バプテスマのヨハネのことばでなく、福音記者ヨハネのことばである。
①後に明らかになるキリスト論が展開されている。
②ここにあるのは、十字架と復活後に与えられる視点である。
③私たちが信じたキリストというお方の卓越性を確認しよう。
1.31~33節
Joh 3:31
上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
Joh 3:32
この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
Joh 3:33
その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。
(1)「上から来られる方」と「地から出る者」の対比
①キリストの起源は、天にある。
②それゆえ、キリストは地上の誰よりも偉大である。
③キリストは、天において見たこと、聞いたことを証しされる。
④人間は、地に属し、地上のことしか理解できない。
⑤それゆえ、だれもその証しを受け入れない。
(2)2種類の人間
①メシアのことばを信じない人
*「だれも」とあるのは、誇張法である。
②メシアのことばを信じる人
*「神は真実であるということに確認の印を押した」
*イエスを信じる者は、神を信じるのである。
*イエスを信じない者は、神を信じないのである。
(例話)決心したときの心の動き
(3)1ヨハ5:10
1Jn 5:10
神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。
2.34節
Joh 3:34
神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
(1)イエスは神から遣わされた方である。
①ヨハネの福音書では、これが39回も出て来る。
(2)イエスは神のことばを話される。
①旧約聖書の預言者たちは、限定された範囲で聖霊を与えられた。
②神はイエスに聖霊を無限に与えたので、イエスは神のことばを語られる。
(例話)説教者のために、この聖句を用いて祈ることの誤り。
3.35~36節
Joh 3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
Joh 3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
(1)父と子は、愛と信頼の関係で結ばれている。
①父と子はひとつである。
②万物は、父から御子の手に渡されている。
(2)御子に対する態度は、そのまま父に対する態度となる。
①御子を信じる者は、永遠のいのちを持つ。
②御子を信じない者は、神の怒りの中にある。
*神の怒りとは、罪や不義に対する怒りである。
*現代人は、神の怒りを軽く考えている。
結論
1.ユダヤ式結婚のたとえ
Joh 3:29
花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。
(1)花婿はキリストである。
(2)花嫁は、教会である。
①2コリ11:2
②エペ5:32
③黙19:6~8
(3)バプテスマのヨハネは、花婿の友人である。
①花婿は、1名か2名の友人を任命する。今日のベストマンと同じである。
②友人の役割は、花婿と花嫁を結びつけることである。
③友人は、宴会の準備をする。
④初夜においては、部屋の外か天幕の外に立ち、花婿の声を待つ。
*花婿から、結婚が完成したとの声がかかる。
*時には、血のついた白い布が友人に渡されることもある。
*その知らせを宴会場に持っていくと、宴会がさらに盛り上がる。
⑤バプテスマのヨハネは、新約時代の教会の一員ではない。
⑥教会は、使2章で誕生した。
2 .私たちに与えられている奉仕
(1)ヨハ3:27
Joh 3:27
ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。
(2)ヨハ3:34
Joh 3:34
神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
(3)イエスの奉仕は無限であるが、私たちの奉仕には制限が設けられている。
①イエスに御霊が無限に与えられているのは、イザ11:1~2の成就。
②私たち人間は、神の許しの範囲内でしか、活動することができない。
③旧約時代の預言者たちは、その時だけ、聖霊の影響を受けた。
④新約時代の信者には、それぞれに、異なった賜物が与えられている。
*1コリ12:7~11参照
(4)私たちの奉仕のゴール
①キリストがあがめられること
②自分に委ねられた範囲内で全力を尽くすこと
③競争ではなく、補完し合うこと
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