私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
ルカの福音書(73)放蕩息子のたとえ話15:11~32
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罪人に対する神の愛について学ぶ。
ルカの福音書 73回
放蕩息子のたとえ話
15:11~32
1.はじめに
(1)文脈の確認
①ルカは、エルサレムへの旅という枠組みの中に、種々の教えを配置している。
②ルカ15章のテーマは、「罪人に対する神の愛」である。
③イエスの奉仕は、貧しい人や罪人を対象としたものであった。
④ルカは、このグループに深い関心を示している。
⑤異邦人もまた、同じ範疇に属する人たちである。
(2)ルカ15:1~32の内容
①いなくなった羊のたとえ話(1~7節)
②なくした銀貨のたとえ話(8~10節)
③放蕩息子のたとえ話(11~32節)
2.アウトライン
(1)弟の物語(11~24節)
(2)兄の物語(25~32節)
3.結論
(1)ルカ15:17
(2)三位一体の神の愛
罪人に対する神の愛について学ぶ。
Ⅰ.弟の物語(11~24節)
1.11節
Luk 15:11
イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
(1)3つのたとえ話に共通した動詞は、エコウ(持つ)である。
①羊を百匹持っている人(4節)
②銀貨を十枚持っている女(8節)
③「ある人に二人の息子がいた」(11節)
*「A certain man had two sons.」(KJV)
④3つのたとえ話では、すべて主人公が何か大切なものを持っている。
⑤所有者は、自己犠牲の精神でそれを守る。
(2)このたとえ話の中心テーマ
①放蕩息子の立ち帰りは感動的な話ではあるが、中心テーマではない。
②父なる神の愛も感動的な話ではあるが、それも中心テーマではない。
③2人の息子の対比が、中心テーマである。
*この点は、最後になるまで分からない。
④弟は取税人や罪人たち、兄はパリサイ人や律法学者たちである。
*適応においては、弟を異邦人、兄をユダヤ人と解釈してもよい。
2.12~13節
Luk 15:12
弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
Luk 15:13
それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
(1)通常の遺産相続
①父が年老いて、財産の管理運用ができなくなった時点で、遺産を分割する。
②兄は、弟の2倍の分を相続した。
(2)弟の要求は、通常考えられないものである。
①親を敬うことが賞賛されたユダヤ人社会では、なおさら異常なことである。
②「お父さん。早く死んでくれ」と言っているのと同じである。
③このような場合、父は息子を厳しく処罰することができた(申21:21)。
④しかし父は、弟の要求を受け入れた。
*父の姿は、父なる神の寛容さを象徴している。
*神は、私たちの自由意志を尊重される。
⑤弟は財産の3分の1を得た。兄は3分の2を得たと思われる。
*父が死ぬまでは、土地を売ることはできない。
*父が生きている間は、土地の収穫は父のものとなった。
⑥しかし弟は、それには構わず、土地を売って旅立った。
⑦聴衆のパリサイ人や律法学者たちは、最初からこの父親を軽蔑した。
(3)弟は、遠い国に旅立った。
①年齢は、18歳以下であろう(独身であった)。
②自分捜しの旅に出たが、自分を見失った。
③「遠い国」とは、物理的距離ではなく、宗教的、文化的距離である。
*デカポリスの中のひとつであろう(ベテ・シャンの遺跡訪問)。
(4)彼は、放蕩して財産を使い果たした。
①「湯水のように」とは、意訳である。
②人生経験がないために、財産の管理ができない。
③後で兄が言うように、「遊女と一緒に食いつぶした」のであろう(30節)。
3.14~16節
Luk 15:14
何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
Luk 15:15
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
Luk 15:16
彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
(1)弟は、何もかも使い果たした。
①その後、その地方全体に激しい飢饉が起こった。
*古代世界では、よくある自然現象であった。
*飢饉は、「a blessing in disguise」である。
②彼は、生き延びるために、異邦人のもとに身を寄せた。
*豚を飼っているので、異邦人だと分かる。
*ガリラヤ湖の東岸の地では、豚が飼育されていた。
③豚飼いは、ユダヤ人にとっては最悪の職業である。
④彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであった。
(2)パリサイ人たちは、これでたとえ話が終わると予測したはずである。
①罪人は、当然の報いを受ける。
②弟は、ユダヤ社会から切り離され、援助を受ける資格を失った。
4.17~20節a
Luk 15:17
しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
Luk 15:18
立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
Luk 15:19
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
Luk 15:20a
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。
(1)弟は、人生のどん底で目が覚めた。
①父の家には、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいる。
②しかし、自分は飢え死にしそうだ。
(2)彼は、雇い人の1人にしてもらおうと考えた。
①息子として受け入れてもらうことは想定していない。
②父に告げる内容を、リハーサルしている。
*「天」とは神のことである。
③聴衆は、弟の決断をとんでもない「思い上がり」と考えたであろう。
5.20節b
Luk 15:20b
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
(1)父親は、息子の帰りを待っていた。
①父親は、家から遠かったのに、息子を見つけた。
②かわいそうに思った。
③駆け寄って、彼の首を抱き、口づけした。
*年長者の威厳を投げ捨てた。
*口づけは、家族愛の表現である。
6.21~24節
Luk 15:21
息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
Luk 15:22
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
Luk 15:23
そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
Luk 15:24
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
(1)父親は、息子のことばを途中でさえぎり、彼を息子として迎えた。
①息子の悔い改めが真実であることを理解した。
②着物は威厳の象徴、指輪と靴は自由民の象徴である。
③宴会を開いた。
*子牛1頭は、村中の人を招いても十分な量である。
*今日でもユダヤ人たちは、大宴会を開く(バール・ミツバ、結婚披露宴)。④ここで、宴会のテーマが再登場する。
*宴会は、メシア的王国の象徴である。
*聴衆は、悔い改めた罪人が御国に入っている姿を想像することができた。
*弟は、悔い改めた罪人の象徴である。
*では、兄はどうなったのか。
(2)古代の作家がよく採用した文学手法がある。
①クライマックスを最後まで隠しておくという手法である。
②ここまでの展開は、前の2つのたとえ話と同じである。
③最後に、クライマックスがくる。
Ⅱ.兄の物語(25~32節)
1.25~28節a
Luk 15:25
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
Luk 15:26
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
Luk 15:27
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
Luk 15:28a
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。
(1)兄は、パリサイ人や律法学者たちの象徴である。
①兄は、弟が宴会の席にいることを喜ばなかった。
②パリサイ人や律法学者たちは、罪人が御国に入るという話を喜ばなかった。
③兄は、宴会の席に入ることを拒否した。
*兄もまた放蕩息子であった。弟とは種類が異なる。
④パリサイ人や律法学者たちは、イエスが提示した御国に入ることを拒否した。
2.28b~30節
Luk 15:28b
それで、父が出て来て彼をなだめた。
Luk 15:29
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
Luk 15:30
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
(1)父親は家から出て来て、侮辱的な態度を取る兄をなだめた。
①イエスは、パリサイ人や律法学者たちとも食事をともにした。
②イエスは、すべての人を御国に招かれた。
(2)兄の態度と自己認識
①「父よ」と呼びかけないのは、軽蔑のしるしである。
②自分は、長年奴隷のように働き、戒めを守った。
③なのに、宴会を開いてもらったことはない。
④弟の帰還によって何かを失ったわけではないのに、不満を口にしている。
⑤兄は、業によって父との関係を保てると思った。
⑥兄は、愛のゆえに父に仕えたのではない。
⑦兄は、自分のことを奴隷のように考えていた。
3.31~32節
Luk 15:31
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
Luk 15:32
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
(1)兄には、家にいる喜びと、父の財産の所有権が与えられていた。
①宗教的指導者たちは、選びの民として特権的地位を有していた。
②彼らには、神の啓示のことばが委ねられていた。
(2)兄は、弟の帰還を喜ぶべきであった。
①兄は、「あなたの息子」と言う。
②父は、「おまえの弟」と言う。
結論
1.ルカ15:17
(1)17節
Luk 15:17
しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
(2)訳文の比較
「しかし、彼は我に返って言った」(新改訳2017)
「そこで、彼は我に返って言った」(新共同訳)
「そこで彼は本心に立ちかえって言った、」(口語訳)
「こんな毎日を送るうち、彼もやっと目が覚めました」(リビングバイブル)
①彼は、遠い国にいた。
②彼は、神から遠く離れていた。
③彼は、本来の自分の姿に気づいた。
(3)本来の自分の姿に立ち返ることが、悔い改めである。
①私は、神の「かたち」に創造されている。
②今の私は、本来の私の姿ではないと気づくことが救いの第一歩である。
③このたとえ話では、兄の反応は記されていない。
*彼は、「我に返った」のだろうか。
2.三位一体の神の愛
(1)いなくなった1匹を探し歩く羊飼いは、イエスを指している。
①イエスの生涯を思い出せ。
*誕生、公生涯、拒絶。十字架の死と復活
②ラビたちは、罪人が神のもとに来るなら神は許してくださると教えていた。
③神が捜し歩く、神が走り寄る、という教えは、イエスに独特のものである。
(2)なくなった銀貨を捜す女の人は、聖霊を指している。
①みことばの光を掲げて、捜す。
②部屋の中に落ちていることは、分かっている。
③アダムとエバが木の間に身を隠していることは分かっていた。
④ザアカイがいちじく桑の木の葉の間に身を隠していることは分かっていた。
(3)放蕩息子の父は、父なる神を指している。
①父は、立ち返った息子をそのまま受け入れた。
②息子が本当に悔い改めたかどうかを確認してから、受け入れたのではない。
③父なる神は、悔い改めた罪人を喜んで迎えてくださる。
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