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ルカの福音書(64)悔い改めの勧め13:1~9
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悔い改めの勧めについて学ぶ。
ルカの福音書 64回
悔い改めの勧め
13:1~9
1.はじめに
(1)文脈の確認
①ルカは、エルサレムへの旅という枠組みの中に、種々の教えを配置している。
②パリサイ人や律法学者によるイエスの拒否が、決定的になった。
③拒否という現実の中で、弟子としていかに生きるべきかが教えられる。
④クリスチャンは、霊的戦いに巻き込まれているのである。
(2)ルカ12:1~13:17の内容
①恐れなき信仰告白(12:1~12)
②永遠の視点(12:13~21)
③神の備え(12:22~34)
④人の子の来臨(12:35~48)
⑤苦難の日の予告(12:49~59)
⑥悔い改めの勧め(13:1~9)
⑦教えの正しさを証明するしるし(13:10~17)
(3)注目すべき点
①7つのポイントは、拒否の現実の中でいかに生きるべきかを教えたものである。
②前回の箇所(苦難の日の予告)
*神の裁きが下る前に、主イエスを通して神と和解するように。
③今回の箇所(悔い改めの勧め)
*迫りくる裁きを前提に、悔い改めの勧めが語られる。
2.アウトライン
(1)悔い改めの必要性(1~5節)
(2)いちじくの木のたとえ話(6~9節)
3.結論
(1)事故や悲劇的な死から学ぶべき教訓
(2)いちじくのたとえ話のイスラエルへの適用
(3)いちじくのたとえ話の個人的適用
悔い改めの勧めについて学ぶ。
Ⅰ.悔い改めの必要性(1~5節)
1.1節
Luk 13:1
ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。
(1)イエスが裁きについて語っていたちょうどそのとき、人々が何人かやって来た。
①彼らは、エルサレムで起こったある悲劇について、イエスに報告した。
②彼らは、イエスがピラトを糾弾してくれることを期待した。
(2)ユダヤ総督のピラトが、ガリラヤのユダヤ人たちを殺した。
①ガリラヤのユダヤ人たちは、神殿でいけにえを献げようとした。
*恐らく、過越の祭りの期間であろう。
②ピラトは、神殿の内庭で彼らを殺した。
*祭りの期間、ピラトはエルサレムに滞在していた。
*ガリラヤ人たちは、反逆罪で殺された可能性がある。
*この事件は、ピラトの残忍な性質と合致している。
③この事件により、いけにえの血とガリラヤ人たちの血が混ざった。
*必ずしも血が混ざったと解釈しなくてもよい。比ゆ的表現の可能性がある。
④この出来事に関する記録は、聖書以外には残っていない。
*したがって、書かれている以上のことは、分からない。
(3)イエスは、報告した人たちが期待したような反応は示さなかった。
①イエスは、ピラトの残忍な行為を糾弾しなかった。
②イエスは、この事件を悔い改めの重要性を教えるための例話とされた。
③前回の「苦難の日の予告」で取り上げたのと同じテーマが続いている。
*神の裁きが下る前に、悔い改める必要がある。
2.2~3節
Luk 13:2
イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。
Luk 13:3
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
(1)当時、多くのユダヤ人が、悲劇や事故は個人的な罪の結果であると考えていた。
①不幸の原因は、罪にあると考えるのは人間の常である。
②エルサレムのユダヤ人は、ガリラヤのユダヤ人に対して優越感を持っていた。
(2)イエスは、報告したユダヤ人たちの誤解を解いた。
①災難に遭ったガリラヤ人たちが、他のガリラヤ人よりも罪深いわけではない。
②悔い改めないなら、みな同じように滅びる。
3.4~5節
Luk 13:4
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
Luk 13:5
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
(1)イエスは別の事件を取り上げ、悲劇は罪の結果であるという誤解を解く。
①シロアムの塔が倒れて、18人が死んだ。
②シロアムの池は、エルサレムの南東の端にあった。
③この事件に関しても、ここに記されていること以外の情報はない。
④死んだ18人は、ローマによる水路工事に従事していた人たちであろう。
(2)死んだ18人は、他のエルサレムの住民よりも罪深かったというわけではない。
①誰であっても、悔い改めないなら、みな同じように滅びる。
②これは、イスラエル全体への警告である。
③この警告は、紀元70年に現実のものとなる。
(3)悔い改めの必要性を教えるために、1つのたとえ話が語られる。
①そのたとえ話の中には、神の恵みの要素が含まれている。
Ⅱ.いちじくの木のたとえ話(6~9節)
1.6節
Luk 13:6
イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
(1)このたとえ話を、別の「いちじくの話」と混同してはならない。
①イエスは、いちじくの木を呪われた(マタ21:19)。
②イエスは、いちじくの木に関する短いたとえ話を語られた(マタ24:32)。
③このたとえ話は、イザヤ書5章1~7節(ぶどう畑のたとえ話)に似ている。
(2)このたとえ話の意味
①神のぶどう園は、世界のことである。
②そこに植えられたいちじくの木は、イスラエルのことである。
③ぶどう園の主人は、神のことである。
④ぶどう園の番人は、主イエスのことである。
(3)イエスは、個人に対してではなく、イスラエルに対して語っている。
①神は、イスラエルが悔い改めの実をつけることを期待した。
②しかしイスラエルは、実をつけることがなかった。
2.7節
Luk 13:7
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
(1)主人は、ぶどう園の番人に言った。
①このいちじくの木には、3年間の猶予を与えた。
②これは、実をつける時期になってから3年が経ったということである。
③しかし、実が見つからない。
④このまま放置しては、土地が無駄になる。
⑤この木を切り倒してしまえ。
3.8~9節
Luk 13:8
番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
Luk 13:9
それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
(1)番人の執りなし
①番人は、もう1年の猶予を与えてほしいと願った。
②「もう1年ある」ではなく、「たった1年しかない」である。
③つまり、緊急に悔い改めが必要であることを教えている。
(2)イスラエルには十分な神の恵みが与えられた。
①番人は、イスラエルという木の周りを掘って、肥料をやった。
②それでも、その木は実を結ばなかった。
③その結果、イスラエルという木は、切り倒された。
*紀元70年のエルサレムの崩壊
結論
1.事故や悲劇的な死から学ぶべき教訓
(1)事故や悲劇的な死は、その人の罪深さを示すバロメーターではない。
(2)ヨハ9:1~3
Joh 9:1
さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
Joh 9:2
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
Joh 9:3
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(3)イエスは、なぜ悲劇に遭う人とそうでない人がいるのかは、説明していない。
(4)すべての人は、やがて死ぬ。
(5)悔い改めないなら、死後に厳しい裁きに遭う。
(6)死は、すべての終わりではない。
(7)ヨハ3:16
Joh 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
2.いちじくのたとえ話のイスラエルへの適用
(1)イスラエルは、実をつけないいちじくの木のようである。
(2)外面はいのちがあるように見えているが、実をつけることはない。
(3)バプテスマのヨハネは、木の根元に斧を置いた(ルカ3:9)。
Luk 3:9
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」
(4)イエスはイスラエルのために3年間奉仕をしたが、実は結ばれなかった。
(5)神はイスラエルをただちに滅ぼすことができたが、さらに忍耐された。
(6)紀元70年、神はローマ軍がエルサレムと神殿を破壊することを赦された。
3.いちじくのたとえ話の個人的適用
(1)悲劇が起きたとき、なぜあの人は死んだのかと問うべきではない。
(2)むしろ、なぜ私が生かされているのかと問うべきである。
(3)神は、私たちが神の栄光を現すことを期待しておられる。
(4)長寿は、人生のゴールではない。
(5)生かされている間に、悔い改めの実を結ぶことが人生のゴールである。
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