私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
Q.171 見たことのない神や天国をどうして信じられますか。
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こちらの質問は、多くの方が抱く素朴な疑問の筆頭かもしれません。目に見えないものは信じないという方はたくさんおられますが、「目で見て確認したから信じる」というのは、何とも当たり前の話・・・。
信仰とは、どんなものでしょうか。
171 見たことのない神や天国をどうして信じられますか。
Q:神様や天国は、誰も見たことがないのに、どうして存在すると断言できますか。聖書にそう記されているからですか。
A:これは、誰もが感じる素朴な疑問だと思います。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、およそ真理と呼ばれるものは、すべて前提的真理です。
つまり、真理は証明されたから真理になったわけではなく、前提的に受け入れられているものだということです。神を信じる人は、前提的に神の存在を受け入れています。神が存在するというのは、その人の世界観です。神の存在を否定する人は、神が存在しないことを証明したからそう確信しているわけではありません。神はいないというのは、その人の前提的真理であり、世界観です。神の存在を否定する人は、物質は最初から存在していたと主張します。そのことを確かめたわけではないので、この主張もまた前提的真理です。つまり、神を信じる人も、そうでない人も、ともに前提的真理に立って議論しているのであり、五分五分だということです。
2番目に、聖書には、信仰に至るための道筋が用意されています。
私の場合は、(1)先ず聖書を歴史書として読み始めました。特に、福音書に記されたナザレのイエスの教えと奇跡に興味を抱きました。(2)次に、もし神がおられて、人類を救うために人となられたとするなら、イエスのようなお方になられたであろうと感じました。(3)最終的にイエスは神であると信じるようになったのは、復活という出来事のゆえです。特に、イエスの復活を目撃したと命懸けで伝えた弟子たちの証言は信用できると思いました。
3番目に、信仰は見ていないがゆえに成り立つものです。
見たというのは確認したということです。そこでは、信仰が働く余地がありません。私は、イエスの復活を見たから信じたのではありません。弟子たちの証言だけで信じたのです。今も、見てはいないけれど聖書に書かれているという理由で信じているものがたくさんあります。宇宙が神のことばで創造されたこと、死後の復活があること、永遠の御国が用意されていること、などを信じています。
参考になる聖句
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(ヘブ11:3)
信仰は、見ていないがゆえに成り立つものです。
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