私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
Q.32 なぜ、聖書の神はねたむ神なのですか?
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今回の質問をされた方は、きっともう聖書を読んだ事があるのですね。旧約聖書には、神が直接人間に語る場面が何度も出てきます。今回の質問の箇所である出エジプト記20章ではイスラエルの人々に向けて、神ご自身が、自分はどんな神であるかを表現されています。でも「ねたむ人」というと、あまり良いイメージは無いですよね?これはどんな意味なのでしょうか。
Q.32 なぜ、聖書の神はねたむ神なのですか?
Q. 質問
旧約聖書に、「わたしはねたむ神」ということばが出てきますが、「ねたみ」という言葉に良いイメージがありません。神ご自身がなぜ自分をそう表現されたのでしょうか。聖書の神は、ねたむ神なのですか。
A. 回答
確かに、出エジプト記20章5節に、こういうことばが出てきます。
「あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト記20:5)
では、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、ねたみは罪です。
ねたみというのは、他人の物を欲しがる罪ですね。「私にはない、羨ましい、あれが欲しい」と。たとえば、他人が持っている富、能力、美貌、こういったものを、私たちは欲しがるわけです。これは、聖書では明らかに罪です。
しかし2番目に、ねたみには別の意味もあります。
出エジプト記20章5節は、「ねたみ」という言葉を別の意味で使っています。このことを、実例を上げながら分りやすく説明してみましょう。夫婦関係、あるいは親子関係を考えると、よく分かります。
例えば、よその男性が自分の妻に言い寄り、彼女を誘惑しようとしているのを見たとき、夫は平静な心ではおれませんね。そのときに知らん顔して、「俺はねたまないよ」と言うのは、おかしいのです。なぜかと言うと、夫は妻を愛しているからです。また、神様から与えられた夫婦関係を破壊しようとする力が働けば、それを排除しようとするのはごく自然な行為だからです。
親子関係も同じことです。子どもが誘拐されそうになっているときに、「俺は構わないよ」という親はおかしいのです。親なら、自分の子どもを命がけで取り返そうとします。
神様が「わたしは、ねたむ神だ」と言われる場合、「ねたむ」という言葉は、2番目の意味で使われています。
3番目に、出エジプト記20章5節は、「偶像礼拝を禁止する」という文脈の中で語られていることを覚えましょう。
つまり、偶像礼拝をする(目に見える像を作りそれを神とする)ということは、「本来は神のみに属している特性を、別の物に与える」行為です。その特性とは、威光、尊厳、栄誉、栄光…などです。そういったものは、神だけに属する性質です。もし私たちが、それらの特性を神ではない像に帰するなら、神はそれに対して「ねたみ」の感情を覚えるわけです。
私たち人間が、創り主である方から離れて、「別の神々」に行こうとするなら、神は私たちを愛して取り戻そうとされる。それは、神としては当然の感情だということです。
神は、私たちを愛しておられる。それゆえ、ねたむ神なのだということです。
あなたも、神に愛されています。
参考になる聖句
「万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ』」(ゼカリヤ書8:2)
「それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか」(ヤコブの手紙4:5)
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