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ヨハネの福音書(58)「復活」ヨハ20:1~18
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イエスの復活は歴史的事実である。ペテロ、ヨハネ、マグダラのマリアの体験がそれを証明している。
ヨハネの福音書(58)
「復活」
ヨハ20:1~18
1.文脈の確認
(4)イエスの受難(18~20章)
①イエスの逮捕(18:1~11)
②イエスの宗教裁判(18:12~27)
③イエスの政治裁判(18:28~40)
④有罪判決(19:1~16)
⑤十字架刑(19:17~30)
⑥埋葬(19:31~42)
⑦復活(20:1~18)
2.注目すべき点
(1)「福音の三要素」は歴史的事実である(1コリ15:3~5)。
①キリストは、私たちの罪のために死なれた。
②また、葬られた。
③また、3日目によみがえられた。
(2)この箇所は、イエスの復活をめぐる最初の目撃証言である。
①空の墓は客観的証拠であり、主に出会うのは個人的経験である。
イエスの復活は歴史的事実である。
ペテロ、ヨハネ、マグダラのマリアの体験がそれを証明している。
Ⅰ.ペテロとヨハネの経験(1~11節)
1.1節
Joh 20:1
さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
(1)「週の初めの日」は、イエスが復活した日、新しい創造の始まりの日である。
①マリアは早い時間に墓に行き、その後日の出とともに他の婦人たちと合流。
(2)神は、証人としての信頼性に欠ける女性を最初の復活の証人に選ばれた。
①復活の歴史的信頼性は、神の逆説的選びによって証明された。
(3)「墓から石が取りのけられていた」というのは、客観的事実である。
①このことは、単なる霊的体験や幻覚ではない。
2.2~3節
Joh 20:2
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
Joh 20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
(1)マリアは、ペテロとヨハネに報告した。
①誰かが墓から死体を取って行った。
②「私たち」という複数形の主語を用いている。
*他の女たちは、自分たちが見聞きしたことを使徒たちに報告した。
③墓に走ったのは、マリアの話を聞いたペテロとヨハネだけだった。
*2人の証人の証言は信頼できる。
2.4~5節
Joh 20:4
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
Joh 20:5
そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
(1)ヨハネの方が、足が速かった。
①年齢差か。伝承では、ヨハネが使徒たちの中で最も若かった。
(2)ヨハネは先に墓に着いたが、のぞき込んだだけで、中には入らなかった。
①亜麻布が置いてあるのを見た。
*この状況は、混乱ではなく、秩序を示唆している。
*「見た」けれど、まだ信仰には至っていない。
②中に入らなかったのは、儀式的汚れを恐れてのことであろう。
③あるいは、ペテロに先を譲ったか。
3.6~8節
Joh 20:6
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
Joh 20:7
イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
Joh 20:8
そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
(1)ペテロは到着すると、中に入って様子を確かめた。
①亜麻布は、イエスの死体をくるんだ状態のままで残されていた。
*頭に巻かれていた布切れは、離れた所に丸めてあった(たたんであった)。
②つまり、イエスのからだは亜麻布を通過してなくなっていた。
③これは、復活のからだが地上のからだとは異なることを示している。
④ラザロの場合は、亜麻布を解く必要があった。
(2)ヨハネはペテロに続いて墓に入った。
①ヨハネも同じものを見たが、その意味を理解した。
②彼は、イエスが復活したことを信じた(初歩的な信仰)。
③墓が開いたのは、弟子たちが中に入って確かめるためであった。
4.9~10節
Joh 20:9
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
Joh 20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
(1)これは、ヨハネの感想である。
①ペテロとヨハネは、「復活の預言」をまだ理解していなかった。
(2)墓に居続ける必要はないと判断し、彼らは町のどこかに戻って行った。
①体験はみことばの理解によって信仰と結びつく。
Ⅱ.マグダラのマリアの体験(11~18節)
1.11~12節
Joh 20:11
一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
Joh 20:12
すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
(1)ペテロとヨハネが去っても、マグダラのマリアは墓に残った。
①愛する人を失くした喪失感がある。
②彼女にとっては、これは「通夜」(寝ずの番)である。
③主を慕い求める者に、特別な啓示が与えられた。
(2)彼女は、墓の中をのぞき込んだ。
①そこに二人の天使が、白い衣をまとって座っていた。
*二人の御使いの配置は、幕屋の贖いの座を意図的に想起させる。
②天使が現れる時は、通常、男性の姿を取る。
*例外的には、イザヤが見たセラフィムの幻がある(イザ6:1~13)。
③彼女には、超自然的なことが起こっているという認識がない。
④御使いの登場は、ユダヤ的背景では「神的承認のしるし」として理解される。
2.13~14節
Joh 20:13
彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
Joh 20:14
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
(1)天使と対話しながら、マリアはそれに気づいていない。
①「女の方、なぜ泣いているのですか」
②「だれかが私の主を取って行きました」
*主に対する彼女の愛が溢れている。
③「どこに主を置いたのか、私には分かりません」
*人間の限界と悲しみが示されている。
(2)彼女はうしろを振り向いた。
①背後に人の気配を感じたのであろう。
②しかし、それがイエスであることが分からなかった。
③「認識できない状態」から「目が開かれる経験」への移行は典型的なパターン。
3.15節
Joh 20:15
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
(1)イエスの質問
①「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」
②マリアを真理へと導く優しい招きである。
(2)マリアの回答
①彼女は、その人を園の管理人(園丁、庭師)だと勘違いした。
②「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。
私が引き取ります」
③なぜイエスだと認識できなかったのか。
*涙で目が曇っていた。
*イエスの姿があまりにも変化していた。
*神が一時的に霊的盲目状態を作り出された。
*喪失感が深くて、正常な判断ができなかった。
4.16~17節
Joh 20:16
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
Joh 20:17
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
(1)マリアにイエスであるとの認識が生まれた。
①旧約聖書で最大の「認識事件」は「私はヨセフです」である(創45:1~3)。
②歴史上最大の「認識事件」はイエスを園丁と思ったことである。
③イエスを認識するきっかけは、「マリア」という呼びかけである。
④善き羊飼いは羊の名を呼び、羊はそれについて行く(ヨハ10:3、4)。
⑤終末時代に、ユダヤ人はイエスがメシアであることを認識する(ゼカ12:10)。
(2)彼女は振り向いた。
①ヘブル語で、「ラボニ」と言った。敬愛と親しみを込めた呼びかけ。
②「私の先生」というニュアンスが含まれている。
(3)イエスは、マリアがイエスに触れることを許さなかった。
①「わたしはまだ父のもとに上っていないのです」がその理由であった。
②贖罪の日の大祭司の奉仕に対応している。
③イエスはこの後、ご自身の血を携えて天の至聖所に入り、幕屋を清められた。
④信者は今「大祭司キリスト」を通して御座に近づける(ヘブ4:14~16)。
(4)マリアへの命令
①「わたしの兄弟たちのところに行って」
*イエスを信じる者たちは、神を天の父とする家族である。
*ロマ8:29
②「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、
あなたがたの神である方のもとに上る」
*イエスは神の家族の中の長子である。
*しかし、イエスと神の関係は、私たちと神の関係とは違う。
*イエスの場合は、「わたしの父」である。
*私たちの場合は、「私たちの父」である。
(5)マリアには、新しい使命が与えられた。復活の証人としての使命である。
①天使たちを見た。
②復活のイエスを見た。
③最初の目撃者となった。
④よき知らせを伝える者となった。
5.18節
Joh 20:18
マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
(1)マグダラのマリアは、弟子たちによき知らせを伝えた。
①彼女は「使徒たちへの使徒」となったのである。
*「私は主を見ました」は、理解をともなった確信的な目撃である。
②しかし弟子たちは、彼女の証言を信じなかった(他の女たちの証言も)。
今日の信者への適用
1.復活は歴史的事実である。
(1)信仰は事実に基づく。
(2)マリアが最初に見たのは「石が取りのけられた墓」だった。
(3)ペテロとヨハネも布が整然と置かれているのを確認した。
(4)感情ではなく、十字架と復活という確かな出来事を信仰の土台とすべき。
2.復活は悲しむ者への慰めである。
(1)マリアは墓の前で泣き続けた。
(2)しかし、主は彼女に優しく語りかけられた。
(3)涙のただ中に主は立っておられる。
(4)主は、個人的に呼ばれるお方である。
3.復活は新しい関係と使命の始まりである。
(1)マリアは、復活の証人として遣わされた。
(2)「わたしの父、あなたがたの父」
(3)復活は信者を神の家族に迎え入れる新しい関係を確立した。
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