私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
メシアの生涯(174)—過越の食事(2)—
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洗足の意味について学ぶ。
「過越の食事(2)」
ヨハ13:1~20
1.はじめに
(1)文脈の確認
①木曜日に、ペテロとヨハネは過越の食事の準備をした。
②日没後(金曜日)、過越の食事が始まった。
(2)過越の食事の手順(ロバートソンの順番とは異なる)
①食前のことば
②第一の杯
③洗足とユダの裏切りの予告(1)
④カルパス(野菜)とユダの裏切りの予告(2)
⑤2枚目の種なしパン(マッツァ)
⑥ハロセットとユダの裏切りの予告(3)
⑦第三の杯
⑧偉大さに関する教え
⑨ペテロの拒否の予告
⑩ハレル(賛美)
(3)A.T.ロバートソンの調和表
§145 過越の食事で、イエスは弟子たちの足を洗う。
2.アウトライン
(1)イエスは弟子たちの足を洗う(1~11節)
(2)イエスは自分が示した模範に従うように教える(12~20節)
3.結論:
(1)ユダは救われていたか。
(2)洗足と1ヨハ1:9
(3)洗足とピリ2:5~8
洗足の意味について学ぶ。
Ⅲ.洗足とユダの裏切りの予告(1)
1.イエスは弟子たちの足を洗う(1~11節)
(1)1節
Joh 13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
①ヨハネの福音書は、他の福音書よりもイエスの教えについて詳細に記している。
②教えの前に、イエスは先ず行動を起こされた。
③イエスは、「自分の時」(十字架の時)が来たことを知られた。
*「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」(新共同訳)
*十分な自覚と冷静さをもって十字架の時を直視された。
④イエスは、父なる神の御心に従順に歩まれた。
*十字架の死は、全人類を救うための愛の行為であった。
*イエスはご自身の羊(弟子たち)を特に愛された。
⑤「その愛を残るところなく示された」
*無限大の愛である。
*洗足、教え、十字架の死の3要素(ヨハ13~19章)
(2)2~5節
Joh 13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
Joh 13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
Joh 13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
Joh 13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
①第一の杯の次に、洗いの儀式(清めの儀式)が続く。
②ユダはすでにイエスを売ろうと決めていた。
*サタンの影響があった。
*イエスはこのことを予見しておられた(ヨハ6:70~71)。
③イエスはすべてを支配しておられた(1節と3節の「悟り」という言葉)。
④洗いの儀式の内容
*食事の前に、主人は客に手を洗ってもらう。しもべの仕事である。
*主人が行う場合もある。
*水差しと鉢を使って、客の手に水を注ぐ。
*腰に吊るしたタオルで手を拭く。
⑤ここでは、イエスがしもべの役割を果たしている。
*しかも、洗うのは手ではなく足である。
⑥パレスチナでは洗足は必要不可欠な習慣であった。
*埃っぽい道路、サンダルを履いた足
*しもべに客の足を洗わせることは、重要な「おもてなし」であった。
*妻が夫の足を洗ったり、子どもが父の足を洗ったりしていた。
*もちろん、自分で洗う人も多くいた。
(3)6~7節
Joh 13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
Joh 13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
①ペテロは、主であるイエスがしもべになっていることに驚いた。
*「あなたが、私の」(語順による対比)
*「あなたのようなお方が、私のような者の足を」
②イエスは、「あとでわかるようになります」と言われた。
*十字架と復活が起こると、わかるようになる。
(4)8節
Joh 13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
①思慮のない言葉は、ペテロの特徴である。
*二重否定 「決して」「洗わないで」
*ペテロの自信と頑なさを示す言葉
*弟子の特徴は主に対する従順であるが、ペテロはそれに反している。
②「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」
*「何の関係もない」とは、深い意味での霊的つながりのことである。
*イエスは、ペテロの従順を試している。
③さらに、思慮に欠けるペテロの言葉が続く。
(5)9~11節
Joh 13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
Joh 13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
Joh 13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない」と言われたのである。
①さらにペテロの思慮に欠けた言葉が続く。
②彼は、極端から極端へと移動する。「手も頭も洗ってください」
③それに対するイエスの教え
*水浴した者は、家に帰ると足を洗うだけでよい。
*そのように、イエスを信じた者は、再度信じ直す必要はない。
④イエスは、ユダの裏切りを知っておられた。
*ヨハネは、イエスの超自然的知識を強調している。
2.イエスは自分が示した模範に従うように教える(12~20節)
(1)12~15節
Joh 13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
Joh 13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
Joh 13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
Joh 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
①「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか」
*洗足は、弟子たちに謙遜を教えるための実物教育である。
②イエスは、「先生(ディダスカロス)」、「主(キュリオス)」である。
③弟子たちよりも上位にあるイエスが、しもべの役割を果たした。
④これは、弟子たちへの模範である。下位にいる者は従うしかない。
⑤聖礼典の3つの条件
*イエスが命令しておられる。
*使徒の働きの中でそれが実行されている。
*書簡の中でその意味が解説されている。
⑥洗足は、聖礼典に含めるべきではない。
*当時と今では、生活環境が違う。靴下と靴を履いている。
*この教えは、物理的な儀式ではなく、心の在り方を教えている。
(2)16~17節
Joh 13:16 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。
Joh 13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。
①イエスの模範に従わないなら、自分をイエスよりも高く置くことになる。
②クリスチャンは、知識の量によって祝福されるのではない。
③理解したことを実行することによって祝福される。
(3)18節
Joh 13:18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた』と書いてあることは成就するのです。
①祝福されない弟子がひとりいる。イスカリオテのユダである。
②詩41:9のダビデの預言
「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げ
た」
*ダビデは、アヒトフェルによって裏切られた。
*これは、メシア預言である。
(4)19~20節
Joh 13:19 わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。
Joh 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」
①イエスの予告は、後になってイエスを信じるための証拠となった。
②神はイエスを派遣し、イエスは弟子たちを派遣する。
③弟子たちを受け入れることは、イエスを受け入れることであり、イエスを受け
入れることは、父なる神を受け入れることである。
結論:
1.ユダは救われていたか。
Joh 13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
(1)水浴した者は、全身きよい。
①これは、イエスを信じた者は罪が赦されていることを示している。
②イエスの血潮による清めである。
(2)みながそうではないとは、イスカリオテのユダのことである。
①ユダは、救われていなかった。
②彼は、洗足という形式を経験したが、霊的な意味は知らなかった。
③ユダの滅びから、救いを失う可能性があると論じてはならない。
2.洗足と1ヨハ1:9
(1)洗足は、弟子たちへの教訓である。
(2)と同時に、霊的適用もある。
1Jn 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
①イエスを信じた時に、全身が清くなっている。
②日々の歩みの中で、罪を犯す可能性がある。
③これは、足を洗っていただく行為である。
④ペテロは、洗足の際のイエスのことばによって立ち直ることができた。
3.洗足とピリ2:5~8
Php 2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
Php 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
Php 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
Php 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
(1)イエスは、自らの神性を自覚しておられた。
(2)イエスは、自らの使命を自覚しておられる。
(3)イエスは、しもべとしての歩みを全うされた。
①神でなくなることはできない。
②神のあり方を捨てた。
(4)マルコの福音書とヨハネの福音書
①マコは「しもべとしてのキリスト」と伝えている。
②ヨハは「神の子としてのキリスト」を伝えている。
③洗足の記事がマコではなくヨハに登場するのは、驚きである。
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