メシアの生涯(156)—祭司長と民の長老たちによる小羊の吟味(1)—

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小羊の吟味から、霊的教訓を学ぶ。

「祭司長と民の長老たちによる小羊の吟味(1)」

マタ21:23~32

1.はじめに

  (1)文脈の確認

    ①イエスは、メシアとしてエルサレムに入城された。

②それは、ニサンの月の10日。紀元30年4月2日。日曜日であった。

③月曜日に、いちじくの木の呪いと、宮清めがあった。

④火曜日に、いちじくの木が枯れていた。

⑤きょうの出来事は、火曜日に起こったものである。

    (2)この箇所を流れているモチーフ

      ①過越しの小羊はイエスの型であり、イエスはその本体である。

②ニサンの月の10日~14日まで、小羊はしみや傷がないかどうか吟味を受ける。

  *4つのグループの指導者たちがイエスに挑戦する。

③挑戦の目的は2つある。

  *群衆を誘導し、イエスに敵対させること

  *イエスがローマ法に違反しているという口実を見つけること

    (3)ユダヤ人の指導者たちとの議論の特徴

  ①ここに登場するのは、古代世界における典型的な議論の方法である。

  ②質疑応答、機知に富んだ軽妙な言葉、論敵の言葉の矛盾を突く論理展開など。

  (例話)福音書を読んだヨッシーさんの感想

  (4)A.T.ロバートソンの調和表

    §132 サンヘドリンは、公にイエスの権威に挑戦する。

        マコ11:27~12:12、マタ21:23~22:14、ルカ20:1~19

  2.アウトライン

    (1)イエスの権威に対する挑戦(23~27節)

    (2)ふたりの息子のたとえ話(28~32節)

    (3)ぶどう園の主人と農夫のたとえ話(33~46節)

    (4)婚宴のたとえ話(22:1~14節)

    (今回は、(1)と(2)を取り上げる)

  3.結論:

    (1)キリスト教界における権威について

    (2)信仰の成長について

    (3)人生の逆転について

小羊の吟味から、霊的教訓を学ぶ。

Ⅰ.イエスの権威に対する挑戦(23~27節)

   1.23節

Mat 21:23 それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

    (1)最初の挑戦は、祭司長と長老たちから来た。

      ①祭司長は、サドカイ派である。

*彼らはローマの意向を気にしなければならない政治家である。

      ②長老は、パリサイ派である。

        *彼らは政治的には無力であるがゆえに、サドカイ派よりも人気があった。

    (2)彼らがこのように公に挑戦をするのは、不法なことではない。

      ①彼らは、自分たちのことを真理の守護者と見なしていた。

      ②権威をもって教える者が現れたなら、その人に挑戦するのは当然のことである。

      ③しかもイエスは、正式なラビ教育を受けていない。

    (3)「これらのこと」(マタ21:8~14の内容)

      ①勝利の入城

      ②人々の賞賛を受けたこと

      ③宮きよめ

      ④盲人や足のなえた人たちの癒し

      ⑤神殿で教えていること

    (4)「何の権威によって」、「だれが、あなたにその権威を授けたのですか」

      ①これは、イエスを罠にかけるための質問である。

      ②もし天から権威を受けたと言えば、冒とく罪で訴える。

      ③もし人から権威を受けたと言えば、その主張は無効である。

        *ユダヤ教では、ラビは彼以前のラビたちの教えを引用する。

        *それがラビの権威の源となる。

        *しかしイエスは、ラビたちの教えを引用せず、聖書だけを引用した。

   2.24~25節a

Mat 21:24 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。

Mat 21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

     (1)イエスの回答は、ラビ的議論の典型的な例である。

      ①質問に対して、質問で答えている。

      ②もし彼らがイエスの質問に答えるなら、イエスも彼らの質問に答える。

    (2)「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか」

      ①「ヨハネのバプテスマ」とは、ヨハネの奉仕全体のことである。

      ②ヨハネは、なんの権威によって奉仕を続けたのかということである。

    (3)「天からですか。それとも人からですか」

      ①これは、イエスの論敵をジレンマに陥れる質問である。

      ②これまでとは、立場が逆転した。

   3.25b~27節a

すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。

Mat 21:26 しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」

Mat 21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。

     (1)もし天からの権威と答えれば、ではなぜイエスを信じないかと責められる。

      ①指導者たちは、ヨハネが神から遣わされた預言者であることを認めていた。

      ②ヨハネはイエスを指して、「見よ、神の小羊」と叫んでいた。

      ③つまり、ヨハネとイエスの権威は、同じ源から発しているということである。

    (2)もし人からと答えれば、群衆が恐い。

①群衆の多くがヨハネの権威を信じていたので、騒ぎ出すだろう。

②特に、祭司長たちはローマの目を恐れていたので、「世論」を気にした。

    (3)そこで彼らは、「わかりません」と答える第3の道を選んだ。

   4.27節b

イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。

     (1)彼らはすでに知っているのである。

      ①知っていることを、さらに教える必要はない。

    (2)イエスは、彼らを叱責するために3つのたとえ話を語る。

      ①緊張感が高まって行くことを見逃してはならない。

Ⅱ.ふたりの息子のたとえ話(28~32節)

   1.28~30節

Mat 21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。/ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。

Mat 21:29 兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。

Mat 21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

     (1)父がふたりの息子に、ぶどう園に行って働いてくれと言った。

①父としては、当然のことを言っている。

②父に対する敬意と従順は、ユダヤ的美徳である。

    (2)兄の場合

      ①すぐに「行く」と言ったが、行かなかった。

      ②父への不従順は、悪徳である。

③この場合は、いったんは行くと言っていたのでさらに悪い。

    (3)弟の場合

      ①行きたくないと言ったのは、よくない。

      ②しかし、最終的には悔い改めて、出かけて行った。

   2.31~32節

Mat 21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。

Mat 21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

     (1)イエスは、どちらが父の願った通りにしたかと聞いた。

      ①修辞的質問や招きの言葉を最後まで取っておくのは、聴衆に強い印象を与える

ための古典的手法である。

    (2)指導者たちは、「あとの者です」と答えた。

      ①この答えによって、彼らは自分自身を裁いたのである。

    (3)イエス自身が、このたとえ話の適用を語る。

      ①宗教的指導者たちと取税人や遊女たちの対比

      ②これ以上落差のある対比はない。

      ③祭司長やパリサイ人たちから見ると、取税人や遊女たちは救い難い罪人である。

      ④その罪人たちの方が、先に神の国に入っているというのである。

      ⑤宗教的指導者たちにとっては、これ以上の侮辱はない。

    (4)兄とは、宗教的指導者たちのことである。

      ①ヨハネが義の道(信仰による義)を持ってきたとき、彼らはヨハネを神からの

預言者と認めた。

②しかし、それが行為となって現れることはなかった。

    (5)弟とは、取税人や遊女たちのことである。

      ①彼らは、神のことばからは遠い所にいた。

      ②しかし、悔い改めてイエスを信じた。

      ③行動は、真の「神の子」が誰であるかを証明する。

結論:

  1.キリスト教界における権威について

(1)神学校に行かなくても、牧師になれるか。

      ①答えは、「イエス」である。

      ②神がご自分の僕を召し、その人に権威を与える。

    (2)では、神学校に行く必要はないのか。

      ①答えは、「イエス」&「ノー」である。

      ②2テモ2:2

      「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人た

ちにゆだねなさい」

  *神の器となるためには、訓練が必要である。

  *使徒たちの教えを継承するのが牧師の使命である。

③神学校で学ぶことには、多くの益がある。

  *しかし、神学校でなくても、よい学びをする機会はある。

  *要するには、教えの内容が問題なのである。

    (3)牧師の権威の範囲は、どこまでなのか。

      ①ユダヤ的法律の原則が、きょうの箇所の背景にある。

      ②派遣された者は、派遣した者と同じ権威を行使できる。

      ③その場合は、派遣された者は主人の意図に忠実に行動するという前提がある。

      ④ヨハネは、神の御心に基づいて行動した。

      ⑤イエスは、100%父の御心に従った。

  2.信仰の成長について

    (1)イエスは、指導者たちの質問に答えなかった。

      ①すでに彼らは答えを知っていた。

      ②しかし、それを受け入れ、行動に移すことはしなかった。

      ③すでに知っていることを、さらに教える必要はないのである。

    (2)神が私たちを扱う方法も、それと同じである。

      ①すでに知っている真理を実践し始めるまでは、新しい真理を学ぶことはない。

  3.人生の逆転について

    (1)表面的に義の衣をかぶっている者は、神の前における真の悔い改めを知らない。

      ①私たちは、儀式や伝統によってクリスチャンになるのではない。

    (2)福音とは、「失敗者へのグッドニュース」である。

    (例話)「オリーブの家」の入室者への励ましのメッセージ

        「人生、やり直しがきく」

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