私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
メシアの生涯(109)—唯一の救い主イエス—
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イエスは、唯一の救い主である。
「唯一の救い主イエス」
§099 ヨハ8:21~30
1.はじめに
(1)文脈の確認
①十字架にかかる前の年の仮庵の祭り(半年前)
②「水の儀式」と「光の儀式」
③その状況にふさわしいイエスの招きのことば
④神殿の中でのイエスの教えが続いている。
⑤§98と§99は、5番目の説教である(ヨハネの福音書に7つの説教がある)。
⑥今回は、§99の前半を取り上げる。
(2)A.T.ロバートソンの調和表
「自らの罪が暴かれたのでイエスに石を投げようとするパリサイ人たち」(§99)
ヨハ8:21~59
2.アウトライン
(1)イエスの教え①(21節)
(2)パリサイ人たちの反応①(22節)
(3)イエスの教え②(23~24節)
(4)パリサイ人たちの反応②(25節a)
(5)イエスの教え③(25b~26節)
(6)パリサイ人たちの反応③(27節)
(7)イエスの教え④(28~29節)
(8)パリサイ人たちの反応④(30節)
3.結論:
(1)普遍的救いの教理は正しいか。
(2)信仰の妨げとは何か。
(3)指導者の権威をどこまで認めるべきか。
(4)信仰を告白する者はすべて救われているか。
イエスは、唯一の救い主である。
Ⅰ.イエスの教え①
1.21節
「イエスはまた彼らに言われた。『わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません』」
(1)イエスは将来自分の身に起こることを知っておられた。
①十字架、埋葬、復活
②昇天
③イエスは、父なる神のもとに行こうとしていた。
(2)パリサイ人たちは、自分の罪の中で死ぬ。
①「罪」という言葉が単数形になっている。
②ここでは、イエスをメシアとして受け入れないことが罪である。
(3)ユダヤ人たちはメシアを探し続ける。
①メシアはすでに来られ、彼らに語られた。
②今も、ユダヤ人たちはメシアを待っている。
(4)イエスが行く所に、彼らは来ることができない。
①イエスは父なる神のもとに戻られる。
Ⅱ.パリサイ人たちの反応①
1.22節
「そこで、ユダヤ人たちは言った。『あの人は「わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない」と言うが、自殺するつもりなのか』」
(1)誤解
①以前は、イエスが離散の地に行こうとしていると誤解した(ヨハ7:35)。
②ここでは、イエスが自殺するつもりなのか、と誤解している。
③ユダヤ教では、自殺は厳しく禁じられていた。
④自殺した者は、ゲヘナの奥深い所に投げ込まれると教えられていた。
(2)皮肉
①イエスは自分たちの追及を逃れるために、自殺しようとしている。
②そうなれば、イエスはゲヘナの奥深い所に投げ込まれる。
③敬虔なユダヤ人である自分たちがそこに行けないのは、当然のことである。
(3)彼らの反応は、罪の暗黒を示すものである。
Ⅲ.イエスの教え②
1.23~24節
「それでイエスは彼らに言われた。『あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです』」
(1)対比
①パリサイ人たちは、下(地上)から来た。
*それゆえ、彼らは「この世の者」である。
②イエスは、上(天)から来た。
*それゆえ、イエスは「この世の者」ではない。
(2)反復
①イエスを信じない者は、「自分の罪の中で死ぬ」。
②「罪」は複数形である。つまり、行為としての罪のことである。
③罪の原理は、種々の行為となって現れる。
(3)訳文の比較(24節)
「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(新改訳)
「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(新共同訳)
「もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」(口語訳)
①ギリシア語では、「わたしはある」(I am.)である。
②イエスが神であり、救い主であることを信じないならば、という意味である。
Ⅳ.パリサイ人たちの反応②
1.25節a
「そこで、彼らはイエスに言った。『あなたはだれですか』」
(1)混乱し、怒るパリサイ人たち。
①イエスの神性宣言
②イエスを信じないなら、罪の中で死ぬという教え
(2)イエスの神性宣言に対する反応である。
①「あなたね、そんなことを言うとは、いったい自分を誰だと思っているのか」
②イエスを冒とく罪に定めようとする質問である。
Ⅴ.イエスの教え③
1.25節b
「イエスは言われた。『それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです』」
(1)訳文の比較
「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです」(新改訳)
「それは初めから話しているではないか」(新共同訳)
「「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか」
(口語訳)
(2)イエスは意図的に、「メシア」という言葉を避けている。
①その言葉は、政治的意味合いを持っているから。
②これまで主張してきた内容に立って、答えている。
2.26節
「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」
(1)追加すべき教えはまだたくさんある。
①パリサイ人の罪を暴いたり、裁きを宣言したりすることなどがそれであろう。
②しかしそれは、イエスがこの世に来た目的ではない。
(2)イエスは、遣わした方の御心だけを伝える。
①「わたしを遣わした方」とは、父なる神のことである。
②ユダヤ法では、使者は主人の命令を実行する範囲において、主人の権威によっ
て守られる。
Ⅵ.パリサイ人たちの反応③
1.27節
「彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった」
(1)イエスの教えは、比喩を用いた教えである。
①公生涯のこの段階では、イエスの教えは比喩的なものになっている。
②聴き手は、その教えの内容を理解することができない。
(2)父のことを知らないので、イエスのことを知らない。
(3)イエスのことを知らないので、父のことを知らない。
Ⅶ.イエスの教え④
1.28節
「イエスは言われた。『あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります』」
(1)パリサイ人たちがイエスの本質を知るタイミング
①彼らがイエスを十字架に付けた時
②「人の子を上げる」とは、十字架に付けるという意味である。
③イザ52:13の七十人訳(ギリシア語訳)から取られた言葉である。
「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる」
(イザ52:13)
④イザ52:14~53:12の文脈は、メシアの受難である。
(2)十字架は、イエスの本質を啓示する。
①すべての人が救われるという意味ではない。
②地震、暗黒、復活などが、イエスは神であることを示す。
③「わたしが何であるかを知るようになります」
*「わたしはある」(I am.)
2.29節
「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行うからです」
(1)イエスと父の愛による一体性
①人に拒否されても、父なる神はイエスから離れない。
②ヨハ16:32
「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」
Ⅷ.パリサイ人たちの反応④
1.30節
「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」
(1)本物の信者と、見せかけの信者がいる。
①いつの時代にも、これと同じことが起こる。
結論:
1.普遍的救いの教理は正しいか。
(1)イエスは天の父のもとに上られる。
(2)イエスを信じない者は、そこには行けない。
(3)ユダヤ人にとっては、「罪の中で死ぬ」のは、恐ろしいことである。
(4)エゼキエル18:21~32
「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18:23)
「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル18:32)
①死ぬと、悔い改めの機会がなくなる。
②ラビたちは、死刑囚に罪の告白を勧告した。
③自分の死が罪の贖いとなることを信じるように教えた。
(5)イエスの教えでは、「悔い改め」とは、イエスを信じることである。
2.信仰の妨げとは何か。
「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません」(ヨハ8:23)
(1)信仰とは、究極的な異文化体験である。
(2)イエスを通して、天の御国がこの世に侵入してきたのである。
(3)イエスのことば、行動、人格を通して、超自然の世界に触れる。
(4)イエスを信じた人は、この世に生きながら、この世の者ではなくなる。
3.指導者の権威をどこまで認めるべきか。
「わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」(26節)
(1)遣わされた者は、遣わした者の代理として権威をふるう。
(2)権威の委譲は、無制限ではない。
(3)遣わした者の意図に従順であるという範囲内で、権威を与えられている。
(4)教会の霊的指導者にも同じことが言える。
①指導者の責務は、神の教えの全体を教えること。
②信者の責務は、忠実な指導者に従うこと。
4.信仰を告白する者はすべて救われているか。
「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」(30節)
(1)ヨハ2:23
「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」
①公生涯の最初にも、これと同じことが起こっていた。
②信仰が表面的なものであるか、救いに至るものであるか、吟味する必要がある。
(2)信仰から離れる人の問題
①一時的なものであり、最後は必ず戻ってくる。
②最初から、救われていなかった。
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