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メシアの生涯(108)—世の光イエス—
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イエスは、人間の必要に答えるお方である。
(ヘロデの神殿の図が参考資料として添付されています。)
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「世の光イエス」
§098 ヨハ8:12~20
1.はじめに
(1)文脈の確認
①十字架にかかる前の年の仮庵の祭り(半年前)
②イエスは、祭りの終わりの大いなる日に、立って大声で人々を招かれた。
③前回学んだ「姦淫の女」の箇所は挿入句であった。
④ヨハ7:52に続いて、8:12が来る。
⑤§98と§99は、5番目の説教である(ヨハネの福音書に7つの説教がある)。
⑥今回は、§98だけを取り上げる。
(2)A.T.ロバートソンの調和表
「パリサイ人たちは、自分は世の光であるというイエスの宣言に怒る」(§98)
ヨハ8:12~20
2.アウトライン
(1)イエスの宣言(12節)
(2)論争(13~19節)
①パリサイ人:自己証言は無効である(13節)
②イエスは証人を必要としない(14節)
③イエスの裁きは人間のそれとは違う(15~16節)
④イエスにも証人がいる(17~18節)
⑤パリサイ人:見たこともない父は証人になれない(19節)
(3)結末(20節)
3.結論:
(1)人生の渇きに対する答え
(2)人生の不安に対する答え
イエスは、人間の必要に答えるお方である。
Ⅰ.イエスの宣言(12節)
1.宣言の時はいつか。
(1)「姦淫の女」の箇所は挿入句である。
①つまり、祭りの終わりの日(7日目)が続いているということである。
②イエスは、人々を招かれた。
2.宣言の場所はどこか。
(1)宮の中である。
①20節によれば、「献金箱のある所」である。
②婦人の庭に13の献金箱が置かれていた。
③箱にはラッパのような形をした口が付いていた(ショフェロット)。
④人々、特にパリサイ人たちは、この口の中に献金を投げ込んでいた。
(2)ランプに火を灯す儀式
①仮庵の祭りでは、水を汲んで祭壇に注ぐ儀式があった。
②もう一つの儀式は、ランプに火を灯すというものである。
③巨大な燭台が2台そこに置かれた。
*50キュビトの高さ(22メートル)
*燭台の上に4個のランプが置かれていた。
*毎日、夕暮れになると、若い祭司たちがランプに火を灯した。
④ミシュナによれば、ランプの光は、エルサレムの狭い路地まで照らしたという。
(3)音楽と踊り
①レビ人の聖歌隊が階段の上に整列し、讃美歌を歌った。
②詩120~134篇 「都上りの歌」、「都に上る歌」
*「שִׁיר המַעֲלוֹת」(上りの歌)
*巡礼歌であり、祭司たちが階段を上った時に歌われた歌でもある。
③階段の段数は、15段である。「上りの歌」も15段である。
④その音楽に合わせて、祭司、パリサイ人、巡礼者たちが、夜通し踊った。
⑤仮庵の祭りは、喜びの祭りである。
⑥もう一つの光の祭りがある。ハヌカの祭り。
「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」(ヨハ10:22)
3.宣言の内容
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』」 (12節)
(1)「彼ら」とは、霊的指導者たちと群衆であろう。
(2)ユダヤの文書には、「世の光」という用語が頻繁に登場する。
①イスラエル、②エルサレム、③族長たち、④メシア、⑤神、⑥有名なラビたち、 ⑦律法(以上に共通しているのは、究極的な意義を有するということ)
(2)ラビ的解釈
①ランプに火を灯す儀式は、シャカイナグローリーの象徴である。
②シャカイナグローリーは、イスラエルの間に住まわれる神の臨在の現れである。
③出エジプト記の荒野の旅で現れた雲の柱と火の柱
④幕屋に宿ったシャカイナグローリー
(3)イエスの主張
①イエスは、ご自分がシャカイナグローリーだと宣言しておられる。
②変貌山では、3人の弟子たちがシャカイナグローリーを目撃した。
③さらに彼らは、天からかかった父の声を聞いた(バット・コル)。
④イエスは、イスラエルの民の間に現れたシャカイナグローリーである。
⑤ヨハネの福音書の中の2番目の「I am.」である。
Ⅱ.論争(13~19節)
1.自己証言は無効である(13節)
「そこでパリサイ人はイエスに言った。『あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません』」 (13節)
(1)これはモーセの律法に基づく法律議論である。
①申17:6と19:15の規定
*2人、または3人の証人の証言が必要である。
②ラビたちは、自己証言の有効性を認めなかった。
(2)しかし、「姦淫の女」の裁きにおいては、彼らはこの規定に違反した。
①自分たちが違反した規定を、イエスに適用している。
②彼らは、最初からイエスを信じるつもりはないのである。
2.イエスは証人を必要としない(14節)
「イエスは答えて、彼らに言われた。『もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません』」
(1)イエスは、自分の場合は複数の証人を必要としていないと言われた。
①ラビたちが自己証言を否定した理由は、人間には偏見(片寄り)があるから。
②イエスの場合は、それがない。イエスは、完ぺきな自己認識を持っておられた。
③自分が父のもとから来て、父のもとに帰ろうとしているのを知っていた。
④イエスは神であるので、その証言に誤りはない。
(2)しかし、パリサイ人たちは無知で、偏見に満ちている。
①彼らは、イエスがどこから来たかを知らない。
*父のもとから来たシャカイナグローリーだということを知らない。
②彼らは、イエスがどこに行くかを知らない。
*イエスは、死後に復活し、父なる神のもとに行こうとしておられる。
3.イエスの裁きは人間のそれとは違う(15~16節)
「あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです」
(1)パリサイ人たちの裁き
①肉による裁き
②表面的なことしか見ない。
③だから、イエスの本質が見えないのである。
④彼らはイエスのことを、「ナザレの大工」としてしか見ていない。
(2)イエスの裁き
①イエスは裁かない。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ3:17)
②終末における裁きも、イエスは父なる神の裁きを執行するだけである。
③しかし、もしイエスが裁くなら、その裁きは常に正しい。
④イエスひとりの裁きではなく、父なる神とともに裁くから。
⑤イエスは、ご自分が父なる神と一体であることを強調された。
⑥パリサイ人たちから見ると、これは冒涜罪に当たる。
4.イエスにも証人がいる(17~18節)
「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます」
(1)「あなたがたの律法」
①この言い方は、皮肉である。
②彼らはモーセの律法の所有者であるが、それを都合よく利用しているだけ。
*本当に所有者なら、その命令に完全に従うべきである。
③イエスは、律法が2人ないし3人の証人を要求していることを認めた。
(2)ここには、ユダヤ的議論がある(大から小の議論)。
①もし、人間の証人(2人ないし3人)が有効なら、ましてや…。
②イエスが、第1の証人である。
*イエスが行ったメシア的奇跡
③父なる神が、第2の証人である。
*天からの声
④それでもユダヤ人たちは、イエスを信じようとはしなかった。
5.見たこともない父は証人になれない(19節)
「すると、彼らはイエスに言った。『あなたの父はどこにいるのですか。』イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう」」
(1)彼らの言葉は、嘲りである。
①あなたの父は誰かではなく、どこにいるのかと聞いた。
②イエスが、神を父だと主張していると理解した。
③イエスの誕生に関する噂を知っていたのであろう。
*タルムードでは、婚外子だとされている。
④父が証人なら、法廷に姿を現さなければならない。
(2)イエスの回答
①福音書では、イエスは一度もヨセフを父と呼んでいない。
②イエスが誰であるかを知らないなら、父をも知らない。
③イエスを通してでなければ、父を知ることはない。
Ⅳ.結末(20節)
1.20節
「イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」
(1)イエスは、公然と話しておられた。
①神殿の中の婦人の庭、献金箱のある所で、教えた。
(2)しかし、だれもイエスを逮捕しなかった。
①神の守りがあったから。
②「イエスの時」(十字架の時)が、まだ来ていなかった。
結論:
はじめに:
(1)仮庵の祭りの2つの儀式
①水を汲む儀式
②ランプに火を灯す儀式
(2)イエスは、この2つの儀式に応答して、人々を教えた。
1.水を汲む儀式:人生の渇きへの回答
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』」(ヨハ7:37~38)
(1)(例話) ある婦人の証し
2.ランプに火を灯す儀式:人生の不安への回答
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』」(ヨハ8:12)
(1)(例話)
質問: 創造主が神なら、それはどうして出来たのですか?最初から神が存在していた
ことが信じられません。
回答:イエス・キリストを通して神を知るのである。
(2)イエスの弟子たちは「世界の光」である。
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」
(マタ5:14)
①イエスが太陽だとするなら、私たちは月である。
②イエスに従う者は、決して闇の中を歩くことがない。
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