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ヨハネの福音書(38)「最後の呼びかけ」ヨハ12:37~50
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最後の呼びかけから、現代的適用を学ぶ。
ヨハネの福音書(38)
「最後の呼びかけ」
ヨハ12:37~50
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)
⑨公生涯の締めくくり(11~12章)
*ラザロの復活(第7のしるし)(11:1~44)
*ラザロの復活がもたらした結果(11:45~57)
*マリアによる油注ぎ(12:1~11)
*エルサレム入城(12:12~19)
*一粒の麦が死ぬとき(12:20~36)
*最後の呼びかけ(12:37~50)
2.注目すべき点
(1)イエスの公の宣教活動の締めくくりである。
(2)13章以降への橋渡しとしての役割を果たしている。
(3)2つの部分に分かれる。
①不信仰な民の霊的背景
②最後の呼びかけ
3.アウトライン
(1)ユダヤ人の不信仰の分析(37~43節)
(2)最後の呼びかけの5つのポイント(44~50節)
4.結論:今日の信者への適用
最後の呼びかけから、現代的適用を学ぶ。
Ⅰ.ユダヤ人の不信仰の分析(37~43節)
1.37節
Joh 12:37
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。
(1)ヨハ1:11
Joh 1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
①ユダヤ人の不信仰は、ヨハネが最初から書いていたことである。
(2)イエスがメシアであることを示す「7つのしるし」
①水をぶどう酒に変えた奇跡(2:1~12)
②王室の役人の息子の癒し(4:46~54)
③ベテスダの池での病人の癒し(5章)
④5千人のパンの奇跡(6章)
⑤ガリラヤ湖の嵐を静める奇跡(6:16~21)
⑥生まれつきの盲人の癒し(9章)
⑦ラザロの復活(11章)
(3)「信じなかった」とは、「不信仰な状態を続けた」ということ。
①ユダヤ人たちは、頑固な態度を続けた。
②人は、「証拠が足りない」から信じないのではない。
③信じないのは、心の問題である。
2.38節
Joh 12:38
それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。/「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。/主の御腕はだれに現れたか。」
(1)ユダヤ人の不信仰は、イザヤによって預言されていた。
①ヨハネは、イザ53:1を引用している。
②「だれが信じたか」という質問への答えは、「信じた者は多くはない」である。
③「主の御腕」とは「神の力」。信じない人がその力を体験することはない。
3.39~40節
Joh 12:39
イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。
Joh 12:40
「主は彼らの目を見えないようにされた。/また、彼らの心を頑なにされた。/彼らがその目で見ることも、/心で理解することも、/立ち返ることもないように。/そして、わたしが彼らを癒やすことも/ないように。」
(1)不信仰の理由は、イザ6:9~10の成就である。
①神は人の不信仰を見越しておられるが、責任は人にある。
②主は彼らに、霊的盲目と心の頑なさをもたらした。
③これは、不信仰に対する神からの裁きでもある。
4.41節
Joh 12:41
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。
(1)イザヤはなぜ、そういう預言を語ったのか。
①イザ6章で、イザヤは神の栄光を目撃し、預言者として召された。
②ヨハネは、イザヤが見た栄光を「イエスの栄光」と呼ぶ。
③イザヤは、受肉前の御子イエス・キリストを見た。
④これは、ヨハネによるキリストの神性宣言である。
⑤イザヤは、イスラエルはこのイエスを拒否するようになると預言した。
5.42~43節
Joh 12:42
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。
Joh 12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。
(1)議員たちの多くが、イエスはメシアだと信じた。
①しかし彼らは、信仰告白はしなかった。
②会堂から除名されることを恐れたのである。
③彼らは、神からほめられることよりも、人間による評価の方を気にした。
④これは、現代的テーマでもある。
(2)彼らは、本当に信じ、救われたのか。
①告白をしないのは、救われていない証拠だと考える人もいる。
②救われてはいるが、告白をしていないだけだと考える人もいる。
③救われているなら、時間の経過とともに実を結ぶようになる。
*アリマタヤのヨセフとニコデモ(ヨハ19:38~39)
Ⅱ.最後の呼びかけの5つのポイント(44~50節)
*44~50節には、イエスがいつ、どこで語ったかの説明がない。
*イエスのこれまでの教えを、ヨハネが要約していると考えられる。
*イエスの教えのポイントは、5つある。
1.44節:イエスは父を証言するために来た。
Joh 12:44
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
(1)イエスを信じることは、父なる神を信じることである。
①イエスと父とは完全に一体である。
②神を信じると言いながら、イエスを信じないことはあり得ないことである。
③イエスを受け入れることが、唯一まことの神を知る道である。
2.45節:イエスは父から派遣された。
Joh 12:45 また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。
(1)父なる神の実態は霊である。
①神を見た者はいない。
(2)イエスは、父なる神を啓示するために来られた。
①イエスが啓示するのは、神の体ではなく、神のご性質である。
②イエスの内に見られるご性質は、父のご性質でもある。
3.46節:イエスは光である。
Joh 12:46
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。
(1)イエスは、この世に輝くシャカイナグローリーである。
①イエスがこの世に来た目的は、私たちを闇から解放するためである。
(2)信じる者は、どのような闇から解放されたのか。
①いのち、死、永遠に関して無知であったが、イエスにあって真理を見い出した。
②道徳的に闇の中にいたが、そこから解放された。
③サタンの闇の王国から解放され、愛と光の神の御国に導かれた。
4.47節:イエスを受け入れる者は救われる。
Joh 12:47だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
(1)イエスの初臨の目的は、世を救うことである。
①それゆえイエスは、信じない者を裁かない。
②不信者の裁きは、将来のことである(最後の審判)。
5.48~50節:イエスを拒否する者は、イエスが語ったことばによって裁かれる。
Joh 12:48
わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。
Joh 12:49
わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
Joh 12:50
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」
(1)イエスを信じなかった者が裁かれる基準は、イエスが語ったことばである。
①イエスが語ったことは、すべて父から命じられたことである。
②イエスは、自分の言いたいことを言ったのではない。
(2)父の命令は、信じる者に永遠の命を与えるものである。
①イエスはそれを知っているので、父が命じるとおりに語っている。
結論:今日の信者への適用
1.イエスを通して父なる神を見るという視点を回復する。
(1)求道者の私が求めたのは、世界は偶然の産物か、神の作品かということ。
(2)神が存在し、死後の世界があるなら、人生の疑問は解決すると思った。
(3)神を知りたいなら、まずイエスを見よ。
(4)イエスのことば、行動、十字架と復活の中に神のご性質が現れている。
2.知的同意ではなく、全人的な信頼に基づく信仰を回復する。
(1)「イエスを知っていること」と「イエスと交流していること」は違う。
(2)全人的な信頼とは、イエスとの交わりをこの上なく楽しんでいることである。
3.私的信仰ではなく、公に告白する信仰を回復する。
(1)信仰の私的化は、現代の信者の問題でもある。
(2)「神の栄光よりも人間の栄光を愛していないか」との自己吟味が必要である。
(3)神からの報奨を期待する信仰生活を送る(キリストの御座の裁き)。
(4)「わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます」(12:48)
4.闇の中ではなく、光の中を歩む生活を回復する。
(1)光の中を歩むとは、御心にかなった歩み、悔い改め、親しい交わりを意味する。
(2)「信じているか」ではなく、「光の中に歩んでいるか」が問われている。
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