ヨハネの福音書(31)「宮きよめの祭りでの論争」ヨハ10:22~42

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イエスは冒涜者ではなく、神である。宗教的指導者たちとの論争を通して、それが明らかになる。

ヨハネの福音書(31)

「宮きよめの祭りでの論争」

ヨハ10:22~42

1.文脈の確認

(1)前書き(1:1~18)

(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)

  ①公生涯への序曲(1:19~51)

  ②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)

  ③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)

  ④サマリア伝道(4:1~42)

  ⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)

  ⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)

  ⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)

  ⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)

    *宮きよめの祭りでの論争(10:22~42)

2.注目すべき点

(1)宮きよめの祭りでの論争は、十字架の死の約4ヶ月前に起こった。

(2)イエスとエルサレムの宗教的指導者たちの対立が激化する。

(3)イエスは、危機的転機を迎える。

3.アウトライン

(1)論争の第一段階(22~30節)

(2)論争の第二段階(31~32節)

(3)論争の第三段階(33~39節)

(4) 追記:積極的な情報(40~42節)

4.結論:今日の信者への適用

イエスは冒涜者ではなく、神である。

宗教的指導者たちとの論争を通して、それが明らかになる。

Ⅰ.論争の第一段階(22~30節)

1.22~23節

Joh 10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。

Joh 10:23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。

(1) 「そのころ」

  ①物語は新たな場面に突入する。

  ②神殿の清めと回復を記念する祭りに、まことの神殿である方が来られた。

(2)宮きよめの祭りは、巡礼祭ではない。

  ①プリムの祭りと宮きよめの祭りは、モーセの律法には出て来ない。

  ②宮きよめの祭り(神殿奉献記念祭)は、ヘブル語で「ハヌカ」(奉献)という。

  ③前165年、セレウコス朝(アンティオコス・エピファネス)から解放された。

  ④マカベア戦争により、ユダヤ人たちは独立を勝ち取った。

  ⑤8日間、神殿の油が切れなかった。光の祭り。

  ⑥パリサイ人たちは、この8日間の祭りの継続を決め、今日に至る。

  ⑦クリスマスと宮きよめの祭りが、時期的に重なる。

(2) 「時は冬であった」

  ①ヨハネは、霊的な冬を暗示していると思われる。

  ②霊的冷たさの中で、イエスは、「わたしの羊はわたしの声を聞く」と言われる。

  ③22節は、受難に向かい始める重要な転換点である。

(3) 「ソロモンの廊を歩いておられた」

  ①神殿の東側に位置する南北に延びた廊(屋根付の空間)である。

  ②ラビたちが講話を語る場所であった。

  ③イエスが歩きながら教えていた可能性がある。

2.24節

Joh 10:24

ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」

(1)ユダヤ人たちとは、エルサレムの指導者たちである。

  ①彼らは、イエスを包囲した。彼らの強い決意が見える。

  ②「いつまで私たちに気をもませるのですか」は苛立ちと敵意がにじむ問いかけ。

  ③彼らの問題は、情報の不足ではなく、啓示に対する信仰の欠如である。

  ④彼らは、ことば尻を捕らえてイエスを逮捕しようとした。

3.25~30節

Joh 10:25

イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、

Joh 10:26

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。

Joh 10:27

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

Joh 10:28

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。

Joh 10:29

わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。

Joh 10:30わたしと父とは一つです
。」

(1)イエスのメシア性は、明確に証明されている。

  ①教えによって

  「わたしは命のパンです」(6:35)

  「わたしは世の光です」(8:12)

  「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」(8:58)

  ②奇跡によって(父の御名によって行うわざ)

(2)6つの重要な教えが登場する。

  ①信じないのは、彼らがイエスの羊に属していないから(26節)。

    *イエスとの関係性が否定される。

  ②信じた人たちは、イエスの声を聞き分ける(27節)。

    *羊は牧者の声を識別して従うことができる。

  ③イエスは彼らのことを知っている(27節)。

    *深い愛の関係と選びに基づく個人的な知識を表している。

  ④彼らは、イエスについて行く(27節)。

    *日々の継続的な従順と追従を意味する。

  ⑤彼らには、永遠の保証が与えられている(28節)。

    *永遠に滅びることはないとの絶対的保証を意味する。

  ⑥彼らをイエスに与えたのは、天の父である(29節)。

    *人間・悪魔・死など、いかなる存在も、羊を天の父から引き離す力はない。

(3) 「わたしと父とは一つです」

  ①ユダヤ的には、これはイエスの神性宣言である。

  ②「一つです」(ヘン)は、機能的一致や目的の一致を越えた存在における一致。

  ③そして、ユダヤ人の指導者たちは、その部分は十分理解した。

Ⅱ.論争の第二段階(31~32節)

1.31節

Joh 10:31

ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。

(1)ユダヤ人の指導者たちは、イエスのことばの意味をよく理解した。

  ①イエスは、最も明白な方法で神性宣言をしている。

  ②彼らは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

  ③ヨハ8:59で同様の記事が出ていた。

2.32節

Joh 10:32

イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

(1)イエスの冷静な回答

  ①イエスは、エルサレムにおいて数々の癒やしを行われた。

  ②それらの癒やしは 、父から出た良いわざである。

  ③そのうちのどのわざが、ユダヤ人の指導者たちを怒らせたのか。

Ⅲ.論争の第三段階(33~39節)

1.33節

Joh 10:33

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」

(1)イエスが行った良いわざは、問題ではない。

  ①安息日の癒しに対しては、怒っていたはずなのに、それに触れていない。

(2)人間でありながら、自分を神とするのが問題である。

  ①イエスが単なる人間だという前提は変えない。

  ②彼らは、イエスの意図をさらに明確にことばにしている。

  ③これが冒とく罪になるのは、イエスが単なる人間である場合のみである。

2.34~36節

Joh 10:34

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。

Joh 10:35

神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、

Joh 10:36

『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

(1)ここでは、ラビ的議論を理解する必要がある。

  ①旧約聖書から引用し、それを適用しながら論を展開する。

  ②「あなたがたの律法に、○○と書いてはいないか」

    *ユダヤ人たちは、律法を与えられていることを誇りとした。

    *ここでは、「律法」は旧約聖書全体を指している。

(2)イエスが引用したのは、詩82:6である。

  神は、正しい裁きを地上に実現するために、人間の裁き人を立てる。

  ②彼らは、神の代理人として裁きを行う。

  ③そういう意味で、彼らは「神々」である(ヘブル語でエロヒム)。

(3)引用聖句の解釈と適用(35~36節)

  ①「聖書は破棄されるものではない」とは、イエスの聖書観である。

  ②ここには、カル・バホメル(大から小へ)の議論がある。

  ③限界を持った人間の裁き人が、「エロヒム」と呼ばれている。

  ④それなら、限界を持たない自分のことを、「神の子」と呼ぶのは当然である。

3.37~38節

Joh 10:37

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。

Joh 10:38

しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

(1)わざがイエスのメシア性を証明している。

  ①イエスが行っているわざは、「父のみわざ」である。

  ②イエスのことばが信じられなくても、イエスのわざを信用することはできる。

  ③ 「父がわたしにおられ、わたしも父にいる」

    *これもまた、イエスの神性宣言である。

4.39節

Joh 10:39

そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。

(1)ユダヤ人の指導者たちはまた、イエスを捕らえようとした。

  ①ヨハ7:30、32、44、8:20参照

(2)イエスは、彼らの手から逃れた。

  ①逃れた方法は記されていない。

  ②逃れた理由が重要である。また、時が来ていない。

  ③間もなく、イエスが自らを彼らの手に委ねる時が来る。

Ⅳ.追記:積極的な情報(40~42節)

1.40節

Joh 10:40

そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。

(1)場所は、ヨルダン川の東、ペレアである。

  ①ここは、サンヘドリンの支配が及ばない地区である。

  ②バプテスマのヨハネの活動は、主にペレアで行われた。

  ③ここは、イエスが公生涯を始めた場所でもある。

  ④イエスは、公生涯の終わりにそこに戻られた。

  ⑤そこは、中央の宗教的権威からは隔離された、孤独な場所である。

2.41~42節

Joh 10:41

多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。

Joh 10:42 そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。

(1)その地で、多くの霊的収穫があった。

  ①ユダヤやエルサレムでの状況とは、好対照である。

  ②論争と拒絶にもかかわらず、神の働きは進んでいる。

(2)信じた人たちは、バプテスマのヨハネの影響を受けていた。

  ①ヨハネは、奇跡を行ったわけではない。

  ②ヨハネは、メシアについて証言し、それがすべて真実であった。

  ③ヨハネは、メシアの先駆者としての使命を十分に果たした。

結論:今日の信者への適用

1.イエスは神だということを知れば、信仰が増し加わる。

(1)自力で信仰を増し加えるわけではない。

(2)信仰とは、啓示された真理への応答として生まれる。

(3)信仰とは、量ではなく、質である。

2.イエスは神だということを知れば、イエスの羊としての自覚が増し加わる。

(1)私たちはさまざまな情報・声・意見に囲まれている。

(2)何より大切なのは、みことばを通して語られるイエスの声を聞くこと。

(3)「わたしは彼らを知っており」は、親密な交わりと選びの関係を意味する。

3.イエスは神だということを知れば、救いの確信が増し加わる。

(1)「彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から

奪い去りはしません」

(2)これは、神による救いの保証であり、私たちの信仰生活の大きな支えである。

(3)救いの根拠は、神の力と忠実さにある。

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