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メシアの生涯(112)—生まれつきの盲人の癒し(1)—
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イエスは、世の光である。
「生まれつきの盲人の癒し(1)」
ヨハ9:1~12
1.はじめに
(1)文脈の確認
①十字架にかかる前の年の仮庵の祭り(半年前)
②イエスは神殿を去ったが、まだエルサレムにとどまっている。
③この箇所は、ヨハネの福音書の7つの奇跡の第6番目を含む。
④イザヤによるメシア預言(イザ42:7):メシアは盲人の目を開く。
⑤イエスは何人もの盲人の目を開かれたが、この箇所の癒しは、特別である。
*イエスのメシア性を示すメシア的奇跡である。
⑥ヨハ8:12の宣言の直後に起きた奇跡である。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハ8:12)
(2)A.T.ロバートソンの調和表
「イエスは生まれつきの盲人を癒す」(§100)
ヨハ9:1~41
2.アウトライン
(1)肉体的癒し(1~12節)
(2)最初の尋問(13~17節)
(3)両親の尋問(18~22節)
(4)第2の尋問(23~34節)
(5)霊的癒し(35~41節)
*今回は(1)を取り上げる。
*今回のアウトライン
(1)イエスの選び(1節)
(2)神学的質問(2~5節)
(3)癒しの業(6~7節)
(4)癒しの結果(8~12節)
3.結論:
(1)絶望的なケース
(2)シロアムの池
イエスは、世の光である。
Ⅰ.イエスの選び(1節)
1.1節
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」(1節)
(1)盲人は、他者の慈善によってしか生きる道はなかった。
①神殿に近い場所が、最も収入を得られる場所である。
②使3:2では、生まれつき足のなえた人が、「美しの門」に置かれていた。
③この箇所の奇跡は、恐らく、イエスが神殿を去った直後に起こったのであろう。
(2)イエスは主権者としてこの盲人を選んでいる。
①絶望的なケース:生まれつきの盲人
②この人は、霊的にも盲目である。
Ⅱ.神学的質問(2~5節)
1.2節
「弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』」(2節)
(1)ユダヤ人たちは、すべての苦難は罪が原因となって起こると信じていた。
①彼自身の罪のゆえに、彼は盲目に生まれついたのか。
②両親の罪のゆえに、彼は盲目に生まれついたのか。
(2)エゼ18:4
「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼ18:4)
①人は、その人自身の罪の責任を問われる。
(3)出20:5
「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、」(出20:5)
①親の罪は、子孫の代にまで影響を及ぼす。
(4)人は、誕生の前に罪を犯すことができるのか。
①パリサイ派の教え
②胎児には、善なる性質と悪なる性質が与えられている。
③悪なる性質が勝つと、敵意をもって母親の腹を蹴飛ばすようになる。
④これは、両親を敬わないという罪である。
⑤この盲人の癒しは、メシアにしかできないものである。
2.3節
「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(3節)
(1)イエスによる第3の答え。
①AでもBでもなく、Cである。
(2)ロマ3:23
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ロマ3:23)
①この人や両親が罪を犯さなかったという意味ではない。
②罪は、この世界に死と呪いをもたらした。
*すべての人は、罪人である。
③しかし、特定の病や試練を、罪の結果だと考えてはならない。
(3)神はこの人が盲目で生まれることを許された。
①神のわざがこの人に現れるためである。
3.4~5節
「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」
(1)日常的な体験を用いた教え
①夜間に働いているのは、城壁の見張り人か、羊飼いくらいである。
②人は、昼の間に働き、夜は休む。
(2)イエスにとっては、昼の間とは、公生涯の期間である。
①イエスは、十字架の時が迫っていることを知っておられた。
②夜とは、十字架の死を意味する。
③時が与えられている間に、自分を遣わしてくださった父なる神のわざを行う。
Ⅲ.癒しの業(6~7節)
1.6節
「イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた」(6節)
(1)イエスは、つばきで泥を作られた。
①アダムは、地のちりから造られた。同じ物質である。
②癒しの方法としてではなく、この盲人の信仰を育てるためであろう。
(2)この方法は、パリサイ人たちとの論争を喚起するためのものである。
①安息日に行われた癒しである。
②口伝律法では、安息日に行ってはならない癒しの方法が例示されている。
*目にぶどう酒を塗る。
*目に、つばきで作った泥を塗る。
2.7節
「『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」(7節)
(1)シロアムの池は、エルサレムの南端にある池である。
①言葉遊びがある。ヘブル語で「シロアハ」は「遣わされた」の意味である。
②イエスは、父なる神から遣わされて、御業を行っている。
③イエスは盲人をシロアムの池に遣わし、癒しを行う。
(2)この池は、仮庵の祭りの期間、エルサレムで最もにぎやかな場所となる。
①この癒しは、群衆が注目する中で行われた。
②盲人は、イエスの命令通りに行い、癒された。
③もしイエスがメシアなら、どうして安息日に癒すのかという反発が起こる。
Ⅳ.癒しの結果(8~12節)
1.8~9節
「近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。』ほかの人は、『これはその人だ』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ』と言った。当人は、『私がその人です』と言った」
(1)人違いではないかという議論が起こった。
①盲人の様相が、激変したことがうかがわれる。
(2)当人は、自分がそれだと言い張った。
2.10~11節
「そこで、彼らは言った。『それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。』彼は答えた。『イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました』」(10~11節)
(1)もしそれが当人なら、当然の疑問は、どうして目があいたのかということである。
(2)彼は、事実をありのままに述べている。
①イエスという方
②彼は盲人だったので、一度もイエスを見たことがない。
3.12節
「また彼らは彼に言った。『その人はどこにいるのですか。』彼は『私は知りません』と言った」(12節)
(1)見たことがないので、その人がどこにいるのか、知らない。
①肉体的な目は開かれた。
②霊的な目は閉ざされたままである。
結論:
1.絶望的なケース
(1)「神の栄光が現れるためである」
①生まれつき盲人であることが、神の栄光の現れだということではない。
②神は盲人を癒すことができるということが、証明された。
③すべての状況は、神の管理下に置かれている。
(2)ヨハ5:5~6
「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」(ヨハ5:5~6)
①ベテスダの池の周りには、多くの病人が伏せっていた。
②イエスは、絶望的なケースを選ばれた。
③この時も、安息日の癒しである。
④神は悪の作者ではないが、悪を用いてでも栄光を現される。
(3)試練に会ったとき、神には第3の答えがあることを思い出せ。
2.シロアムの池
(1)地理的状況
①ヒゼキヤ王がアッシリヤ軍の攻撃に備えて、全長533mのトンネルを掘った。
②ギホンの泉からシロアムの池まで水を導いた。
③仮庵の祭りの間、大いに賑わっていた。
(2)聖句
「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる」(イザ8:6~8)
①北王国イスラエルは、アッシリヤに対抗するために、アラムに頼った。
②【主】は、ゆるやかに流れるシロアハの水である。
③アッシリヤは、洪水のように北王国を滅ぼす。
④エルサレムは、首まで水に浸かるような経験をする。
(3)主イエスのご人格を思い出せ。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタ11:28~30)
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