私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
ルカの福音書(44)ペテロの信仰告白9:18~27
- このメッセージに感謝を贈る
-
この無料配信メッセージは、皆様の祈りと献金のサポートで成り立っています。
あなたの「ちょっとした感謝」を300円献金で贈ってみませんか?
このメッセージでは...
ペテロの信仰告白とそれに続くイエスの教えについて学ぶ。
ルカの福音書 44回
ペテロの信仰告白
ルカ9:18~27
1.はじめに
(1)文脈の確認
①イエスのガリラヤ地方での奉仕(ルカ4:14~9:50)
②ルカ9:1~50は、そのクライマックスである。
③エルサレムへの旅(ルカ9:51~19:10)へのブリッジである。
④ルカ9:1~50の中心テーマは、弟子訓練である。
*教会時代への準備が始まる。
(2)ルカ9:1~27の内容
①12人の派遣(1~6節)
②挿入句的エピソード(ヘロデの心理状態)(7~9節)
③12人の帰還(10~17節)
④ペテロの信仰告白(18~27節)
*ルカだけが、5000人の給食の直後に、ペテロの信仰告白を置いている。
*イエスが誰かということを強調するためである。
2.アウトライン
(1)ペテロの信仰告白(18~20節)
(2)イエスによる受難の予告(21~22節)
(3)弟子が負う十字架(23~27節)
3.結論:ルカ9:27の「神の国を見る」の意味
ペテロの信仰告白とそれに続くイエスの教えについて学ぶ。
Ⅰ.ペテロの信仰告白(18~20節)
1.18~19節
Luk 9:18
さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。 「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
Luk 9:19
彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」
(1)ルカは、他の福音記者たちが記録している多くの情報を省略している。
①このことが起った場所はピリポ・カイザリヤであるが、その情報は出て来ない。
②ルカの視点からすると、場所に関する情報は重要なものではない。
③「この人は、いったい誰なのだろうか」という質問は重要である。
*ヘロデは、直接的にこの質問をした。
*群衆は、パンを食べながら間接的にこの質問をした。
④この質問への回答が、ペテロの信仰告白である。
⑤イエスを誰だと考えるかによって、私たちの生き方は変ってくる。
(2)「イエスが一人で祈っておられたとき」
①ルカだけがこれを書いている。
②イエスは、父なる神に絶対的な信頼を置いていた。
③ルカ9:16
Luk 9:16
そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
④5000人の給食も、ペテロの信仰告白も、祈りに対する答えである。
⑤ここでは、イエスは弟子たちが正しい信仰に導かれるように祈られた。
(3)「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」
①群衆とは、まだ態度を決めていない人々である。
②「群衆は自分が果たしている役割をどう評価しているのか」という質問である。
(4)弟子たちの答えは、すでにルカ9:7~8に出ていた内容である。
①バプテスマのヨハネ
②エリヤ
③昔の預言者の一人が生き返った。
2.20節
Luk 9:20
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」
(1)「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
①イエスは、同じ質問を弟子たちに向けた。
(2)ペテロは弟子集団を代表して、「神のキリストです」と答えた。
①「神のキリスト」とは、神から送られたメシアという意味である。
②ペテロは、イエスが偉大な預言者であるという理解を否定した。
*イスラムの教理では、イエスは偉大な預言者である。
③ペテロは、イエスが旧約聖書で約束されたメシアであることを信じた。
④当時のユダヤ人が持っていたメシア像
*メシアはダビデの子孫である。
*ローマの支配を打ち破り、地上に神の国を建設する。
*メシアを神とは考えない。
(3)マタ16:15~16
Mat 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
Mat 16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
①「生ける神の子」は、イエスの神性を示すことばである。
②ペテロは、イエスの神性を信じた。
③ルカは、「生ける神の子」ということばを省略した。
*異邦人は、「キリスト」ということばは神性を示していると理解していた。
*異邦人の読者は、ペテロの告白はイエスの神性を認めたものだと理解した。
Ⅱ.イエスによる受難の予告(21~22節)
1.21節
Luk 9:21
するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。
(1)イエスは、このことを誰にも話さないように弟子たちに命じた。
①群衆が騒ぎ立てると、今後の奉仕に支障が出る。
②時が来たなら、イエスはご自身がこのことを明らかにされる。
③勝利の入城の時が、それである。
2.22節
Luk 9:22
そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。
(1)ルカは、いくつかの重要な情報を省いている。
①教会設立の預言
②ペテロがイエスをいさめた出来事
③イエスがペテロを叱責した出来事
④ルカは、受難の予告に焦点を合わせるために、それ以外の情報を省略している。
(2)これは、イエスが語った最初の受難の予告である。
①メシアの受難は、弟子訓練のための重要なテーマである。
*指導者たちに捨てられる。
*殺される。
*3日目によみがえる。
②イエスによる受難の予告は、毎回、復活の希望で終わる。
③弟子たちは、毎回、この予告を理解することができない。
(3)「人の子」というタイトル
①ダニ7:13~14
Dan 7:13
私がまた、夜の幻を見ていると、/見よ、人の子のような方が/天の雲とともに来られた。/その方は『年を経た方』のもとに進み、/その前に導かれた。
Dan 7:14
この方に、主権と栄誉と国が与えられ、/諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、/この方に仕えることになった。/その主権は永遠の主権で、/過ぎ去ることがなく、/その国は滅びることがない。
②人の子は、世界を統治する方である。
③イエスは、殺されるが、復活して世界を統治するようになる。
④弟子たちは、そのようなことが起るとは信じられなかった。
Ⅲ.弟子が負う十字架(23~27節)
1.23節
Luk 9:23
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
(1)次にイエスは、イエスの弟子たちが経験する苦難について教える。
①「わたしについて来たいと思うなら」とは、弟子になりたいならという意味。
②「自分を捨て」とは、物を捨てるよりも根本的な自我の否定である。
*自分の栄光ではなく、神の栄光を求める姿勢
③「自分の十字架を負って」とは、弟子として受ける非難を甘受することである。
④信者には、未信者にない重荷が与えられている。
⑤イエスの弟子には、イエスのライフスタイルに倣って生きることが求められる。
2.24~26節
Luk 9:24
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
Luk 9:25
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。
Luk 9:26
だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。
(1)信者には2つの選択肢が与えられている。
①自分の栄光を求めて生きる道。その者は、人生の意味を見失う。
②神の栄光を求めて生きる道。その者は、人生の本当の意味を見いだす。
(2)献身を妨害する最大の要因は、物欲である。
①全世界を手に入れるとは、物質的に富むことである。
②そうなったとしても、本当の人生を味わっていないなら、なんの益もない。
(3)今の状況と将来の状況を対比させる。
①信者には、現世においてキリストと神のことばを恥じる可能性がある。
*この世から受け入れられないことを、恥ずかしく思う。
②キリストは、栄光の姿で再臨されるとき、そのような人を恥じる。
*来たるべき世においては、より大きな恥を受けることになる。
3.27節
Luk 9:27
まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
(1)「神の国を見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます」
①これは、ペテロとヨハネとヤコブのことである。
②次に続くのは、変貌山の出来事である。
③変貌山では、神の国の予兆が現れた。
結論:ルカ9:27の「神の国を見る」の意味
Luk 9:27
まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
1.復活を見る。
(1)イスカリオテのユダを除いた全員が、復活のイエスに出会っている。
(2)それゆえ、この可能性はない。
2.ペンテコステを見る。
(1)使徒たち全員が、ペンテコステの出来事を体験している。
(2)それゆえ、この可能性はない。
(3)そもそもペンテコステは、メシア的王国の始まりではない。
3.エルサレムの崩壊を見る。
(1)エルサレムの崩壊は、メシア的王国をもたらしたわけではない。
(2)それゆえ、この可能性はない。
4.メシア的王国そのものが始まるのを見る。
(1)使徒たちが生きている間に、メシア的王国が始まったわけではない。
(2)それゆえ、この可能性はない。
5.神の国を見るとは、イエスを信じることである。
(1)見ない人たちとは、イエスを信じない人たちである。
(2)文脈上、不信者は含まれていないので、この可能性はない。
6.栄光のイエスを見る。
(1)変貌山の出来事は、メシア的王国の予兆であり、前味である。
(2)それを目撃するのは、たった3人である。
(3)それ以外の弟子たちは、神の国を見る前に死ぬということが暗示されている。
(4)イエスは、神の国の成就が延期されたことを示しておられる。
(5)神の国(メシア的王国)の重要性を理解しないと、終末論は整理されない。
(6)弟子たちが期待した神の国は、再臨のメシアによって地上に成就する。
週間アクセスランキング
コリント人への手紙第二(13)批判する者たちへの反論10:1~18
Q421 天国でも性別は存在しますか。
イスラエル旅2023#088中川牧師とめぐる旅:【エルサレム旧市街】4つの地区とエルサレムの再統一
コリント人への手紙第二(14)パウロと偽使徒の違い(1)11:1~15
コリント人への手紙第二(12)エルサレム教会への献金(3)-喜んで与える祝福―9:1~15
Q420 頭に燃える炭火を積むとはどういう意味ですか。