私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
Q.186 一度救われたなら、救いを失うことはないのですか。
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救いは神が与えてくださるもの。一度受けた救いはなくならない、とこのサイトでお伝えしてきました。が、イエスの十二弟子だったイスカリオテのユダや無責任な生き方をするクリスチャンなど、そういう人たちはどうなるのでしょうか?
やっぱり救いには人間側の行いも必要なのでしょうか?
186 一度救われたなら、救いを失うことはないのですか
Q:一度受けた救いは永遠になくなることがないとお話しされてますが、12弟子の中のイスカリオテのユダの場合は、どうですか。一度救いを受けた者であっても、それで永久保証がかかって、聖書の教えも守らず、教会にも通わないとなると、それでも救いを受けられるということに対して、疑問に感じました。
A:もっともな疑問だと思います。いつものように3つ申し上げます。
1番目に、救いの本質について考えてみましょう。
このテーマの要点は、「救いは神が与えてくださるものなのか、人間の行為が多少とも貢献するものなのか」ということです。イエス・キリストを信じるということは、神の恵みを信仰によって受け取ることです。つまり、救いは人間の行為とは無関係だということです。もし救いが完全に神から与えられるものだとすると、人間の作為や不作為によって救いが取り去られるというのは、論理の矛盾になります。
2番目に、イスカリオテのユダの場合を考えてみましょう。
彼には、救われるための機会は多く与えられていましたが、彼が救われていたと教えている聖句はありません。つまり、ユダの救いは取り去られたのかどうかを論じること自体、意味のないことです。彼は、最初から救われていなかったからです。
3番目に、クリスチャンになっても無責任な生き方をする人の場合を考えてみましょう。
この場合、2つの可能性が考えられます。
①クリスチャンだと言いながら、自分勝手に生きている人は、最初から救われていない可能性が大です。救いに至る信仰を持っている場合は、そのような生き方はしないはずです。その人は、クリスチャンだと自称しているだけで、実際はそうではないということです。
②稀に、救われていても行動が伴わない人もいるはずです。その人は内住の聖霊の声を無視して生きていますので、大変苦しいと思います。神様は、そういう人を訓練されます。つまり、試練や苦難を通して、神様に立ち返るように導かれるということです。それでも悔い改めない場合は、罪に対する罰として肉体の命が取り去られることがあります。その人は肉体的には死にますが、霊的には救われています。この例が、使徒の働き5章に出て来るアナニヤとサッピラです。
参考になる聖句
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペ2:8~9)
神の恵みと信仰によって救われた人は、神に喜ばれる生活をしたいと願うようになります。
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