私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
Q.36 物心つく前に亡くなる子どもや、知的ハンディを負った人は、救われるのでしょうか?
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第二サムエル記12章で、あの有名なダビデ王も子供を失うという辛い体験をしています。聖書には、このテーマに関する明確な答えが書かれているでしょうか。さっそく動画を見てみましょう。
Q.36 物心つく前に亡くなる子どもや、知的ハンディを負った人は、救われるのでしょうか?
Q. 質問
物心つく前に亡くなる子どもや、知的ハンディを負った人は、救われるのでしょうか。もし、救われないとすると、とても心が苦しくなってしまって辛いです。
A. 回答
これは、誰もが疑問に感じるテーマですね。いつものように、3つ申し上げます。
1番目に、このテーマに関しては、聖書は沈黙しています。
つまり、いくら聖書を調べても、これについて断定的な発言はできないということです。しかし、神様のご性質、「神は愛であり、聖であり、義である」ということから考えると、何が起こるかを予想することはできます。
2番目に、亡くなった子どもが、天に迎えられたと解釈できる箇所があります。
それは、旧約聖書のサムエル記第二12章23節に記されているダビデのことばです。ダビデは、バテ・シェバとの間に生まれた子どもが亡くなるまでは断食して祈っていましたが、亡くなった後は、断食を止めて、このように言っています。
「私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」(サムエル記第二12:23)
このことばは、亡くなった自分の子どもは天国に行った、やがて私もそこに行く、という意味です。
自らの罪の判断ができない子ども、あるいはキリストに関する判断ができない子どもは、責任を問われません。これが、「聖書的原則」です。
3番目に、子どもに適用される原則は、知的ハンディを負った人にも適用されます。
知的レベルが責任を問えるような状態ではない場合、つまり、自己判断ができないので自己責任がないというような場合は、責任は問われません。
私たちは、神様が愛と義によって全てを判断しておられるというところに、平安を見出だすべきです。
この質問をされた方は、この質問をしなければならないような悲しい体験をされた方だと思われますが、子どもや、知的ハンディを持った人の救いに関しては、神様にすべてを委ねて、平安をいただくのが良いと思います。
参考になる聖句
「ダビデは言った。『子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、【主】が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない』」(サムエル記第二12:22〜23)
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道者の書3:11)
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