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Q452 イエスは、罪を犯す可能性がありましたか。
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452 イエスは、罪を犯す可能性があったか?
Q:イエスは、サタンの誘惑に遭ったとき、罪を犯す可能性はありましたか。
はじめに
このテーマは、キリスト教神学における重要な争点になっています。罪を犯す可能性があるという立場を「ペカビリティ(peccability)」、罪を犯す可能性はないという立場を「インペカビリティ(impeccability)」と言います。
前者の立場は、イエスの誘惑が真実であるためには、実際に罪を犯す可能性がなければならないと主張します。しかし、歴史的および神学的観点から見ると、後者の立場が主流です。私も迷いはありましたが、今では後者に賛成しています。その理由を、いつものように3つ申し上げます。
1番目に、イエスは完全な神であり、完全な人です(キリストの二性)。
(1)「二性一人格(hypostatic union)」は、カルケドン信条(451年)で明確化。
(2)イエスは、神としての全能性と、人としての完全な人間性を同時に保持。
2番目に、神性と人性の調和のゆえに、罪を犯すことは不可能です。
(1)神は、罪を犯すことができないお方です(ヤコブ1:13)。
(2)イエスの人性は、完全な人間性であり、神性と分離されることはありません。
(3)したがって、イエスが罪を犯すことは、論理的にも神学的にも不可能です。
(4)罪を犯すことができるとすれば、それは神が罪を犯すことができることを意味
し、神の本質に反します。
3番目に、イエスは現実の誘惑を受け、その極みまで体験されました。
(1)私たちと同じように、あらゆる点で誘惑を受けられました(ヘブル4:15)。
(2)私たちのように途中で屈することはないので、誘惑の力を最後まで体験された。
(3)イエスは、実際に誘惑を受けられたが、罪を犯すことはなかった。
(4)イエスは、「完全な贖いの供え物」としての資格を持っておられます。
(5)イエスは、私たちの大祭司となられました。
イエスは、罪を犯すことができないお方です。
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