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ヨハネの福音書(39)「弟子たちの足を洗うイエス」ヨハ13:1~20
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イエスの弟子として、いかに生きるべきかを学ぶ。
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ヨハネの福音書(39)
「弟子たちの足を洗うイエス」
ヨハ13:1~20
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
(3)イエスの私的奉仕(13:1~17:26)
①最後の晩餐(13:1~30)
*弟子たちの足を洗うイエス(13:1~20)
*裏切りを予告するイエス(13:21~30)
2.注目すべき点
(1)これは、十字架の死に至る前夜の出来事である。
(2)「最後までの愛」が中心テーマである。
(3)主イエスは、誰もが避ける仕事をされた。
(4)主イエスが示された手本から多くの教訓を学ぶことができる。
3.アウトライン
(1)弟子たちの足を洗うイエス(1~11節)
(2)模範に従うように教えるイエス(12~20節)
4.結論:今日の信者への適用
イエスの弟子として、いかに生きるべきかを学ぶ。
Ⅰ.弟子たちの足を洗うイエス(1~11節)
1.1節
Joh 13:1
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
(1)ヨハネの福音書は、共観福音書よりもイエスの教えについて詳細に記している。
①教えの前に、イエスは行動を起こされた。
②タイミングは、「過越の祭りの前」である。
③イエスは、「ご自分の時」(十字架の時)が来たことを知っておられた。
*「この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時」
④イエスは、十分な自覚と冷静さをもって十字架の時を直視しておられた。
(2)イエスは、「ご自身の者たち」(弟子たち)を特に愛された。
①適用として、すべての信者に広げられる。
②「エイス・テロス」は、「終わりまで」「極限まで」「完全に」という意味を持る。
③単に時間的な終末ではなく、「愛の完成形」が示されている。
④イエスの犠牲的愛は、「律法の完成」である。
2.2~5節
Joh 13:2
夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
Joh 13:3
イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
Joh 13:4
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
Joh 13:5
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
(1)ユダはすでにイエスを売ろうと決めていた。
①悪魔の影響があった。
②イエスはこのことを予見しておられた(ヨハ6:70~71)。
③悪魔は、十字架を通して神の計画に協力してしまう「逆説的な立場」にいる。
(2)洗いの儀式の内容
①食事の前に、客に手を洗ってもらう。
②しもべの仕事であるが、主人が行う場合もある。
*水差しと鉢を使って、客の手に水を注ぐ。
*腰に吊るしたタオルで手を拭く。
③この箇所では、イエスがしもべの役割を果たしている。
*しかも、洗うのは手ではなく足である。
(3)一連の行為は、イエスの受肉の象徴である。
①上着を脱ぐ。栄光を離れたイエスの受肉。
②手ぬぐいを腰に巻く。しもべの姿を取ったメシア。
③ピリ2:6~7と対応する、予表的行動である。
3.6~7節
Joh 13:6
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
Joh 13:7
イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
(1)ペテロは、主であるイエスがしもべになっていることに驚いた。
①「あなたが、私の足を」(語順による対比)
*「あなたのようなお方が、私のような者の足を」
②ペテロは、栄光の王としてのメシア観に固執していた。
(2)イエスは、「後で分かるようになります」と言われた。
①「出来事が完了した後に」という時間感覚である。
②十字架、復活、昇天、聖霊降臨によって、分かるようになる。
③イエスの行為は、贖い・清め・愛の本質を象徴している。
④それは、聖霊による啓示なしには理解できない性質のものである。
4.8節
Joh 13:8ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
(1)思慮のないことばは、ペテロの特徴である。
①「決して」「洗わないで」という二重否定。
*ペテロの自信と頑なさを示すことば
②弟子の特徴は主に対する従順であるが、ペテロはそれに反している。
(2)「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」
①「関係ない」とは、深い意味での霊的つながりのことである。
*イエスの清めを拒否するなら、イエスとの交わりを保つことができない。
*ここでの「関係」は、救いの関係ではなく、交わりの関係である。
②さらに、思慮に欠けるペテロのことばが続く。
5.9~11節
Joh 13:9
シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
Joh 13:10
イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
Joh 13:11
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
(1)ペテロは、極端から極端へと移動する。
①「足だけでなく、手も頭も洗ってください」
(2)それに対するイエスの教え
①水浴した者は、家に帰ると足を洗うだけでよい。
②「水浴」は、全身を洗う行為で、救いの象徴である。
*一度限りの「義認」を意味している。
③「足を洗う」は、部分的・日常的な清めの象徴である。
*信者の日々の罪の告白と清めを指す。
④イエスを信じた者は、再度信じ直す必要はない。
(3)イエスは、ユダの裏切りを知っておられた。
①イエスのそばにいても、救われていない人がいる。
*教会という共同体の中にいることと、救われていることは別問題である。
②ヨハネは、イエスの超自然的知識を強調している。
Ⅱ.模範に従うように教えるイエス(12~20節)
1.12~15節
Joh 13:12
イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
Joh 13:13
あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
Joh 13:14
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
Joh 13:15
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
(1)イエスは、教える者としての立場に戻った。
①ユダヤ的教育法に則している。
②行動→問い→解説
(2)イエスを「先生(ディダスカロス)」、「主(キュリオス)」と呼ぶのは正しい。
①弟子たちよりも上位にあるイエスが、しもべの役割を果たした。
②これは、弟子たちへの模範であり、「従うべき型(パターン)」である。
③下位の者は、この命令に従うしかない。
(3)洗足は、聖礼典に含めるべきではない。
①当時と今では、生活環境が違う。靴下と靴を履いている。
②イエスは、物理的な儀式ではなく、心の在り方を教えている。
③聖礼典の3つの条件が満たされていない。
*イエスが「くり返し実施せよ」と命令しておられる。
*使徒の働きの中でそれが実行されている。
*書簡の中でその意味が解説されている。
2.16~17節
Joh 13:16
まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。
Joh 13:17
これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。
(1)ユダヤ教のラビ文献に見られる格言
①イエスの模範に従わないなら、自分をイエスよりも高く置くことになる。
②これは、初代教会における権威と奉仕の正しい関係のモデルである。
(2)クリスチャンは、知識の量によって祝福されるのではない。
①理解したことを実行することによって祝福される。
②これは、御国での役割や報奨に直結する霊的原則である。
3.18節
Joh 13:18
わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。
(1)祝福されない弟子が一人いる。イスカリオテのユダである。
①「神の選び」と「人間の責任」の緊張関係が見られる。
②ユダの選びは、「預言の成就」として計画されたものであり、偶然ではない。
(2)詩41:9は、メシア預言である。
Psa 41:9 私が信頼した親しい友が/私のパンを食べている者までが/私に向かって かかとを上げます。
①ダビデは、アヒトフェルによって裏切られた。
②裏切り者は、外部ではなく、内部から現れる。
4.19~20節
Joh 13:19
事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。
Joh 13:20
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
(1)イエスの予告は、後になってイエスを信じるための証拠となった。
①イエスは、永遠の神である。
(2)神はイエスを派遣し、イエスは弟子たちを派遣する。
①弟子たちを受け入れることは、イエスを受け入れることである。
②イエスを受け入れることは、父なる神を受け入れることである。
③教会時代の権威の継承
*キリストから使徒へ
*使徒から教会へ
結論:今日の信者への適用
1.イエスの愛に倣う。
(1)相手のために仕える愛を実践する。
(2)失敗する人、裏切る人にも、最後まで愛を持って接する。
2.イエスのへりくだりに倣う。
(1)自分より弱い立場の人、汚れた人に仕えることをいとわない。
(2)人に気づかれない「しもべ的奉仕」を大切にする。
(3)罪を犯した兄弟に対して、回復と清めが実現するような姿勢を取る(ガラ6:1)。
3.イエスに足を洗っていただく。
(1)へりくだった人は、イエスに足を洗っていただくことを受け入れる。
(2)日々、主の前に罪を認め、交わりを保つための告白を実行する(1ヨハ1:9)。
(3)「清さ」が奉仕の前提条件であることを認識する。
4.イエスが体験した裏切りに備える。
(1)内側からの裏切りは、現実に起こり得る。
(2)神の主権を信じ、動揺しない。
5.イエスに派遣された大使として奉仕する。
(1)家庭でも職場でも、主の代理人として、誠実に、真実をもって生きる。
(2)説教者は、自分のことばではなく、遣わした方の権威に基づいて語る責任がある。
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Q449 なぜ2000年前のキリストの死が、今の私に関係があるのですか。