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ヨハネの福音書(37)「一粒の麦が死ぬとき」ヨハ12:20~36
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「一粒の麦のたとえ」から、霊的教訓を学ぶ。
ヨハネの福音書(37)
「一粒の麦が死ぬとき」
ヨハ12:20~36
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)
⑨公生涯の締めくくり(11~12章)
*ラザロの復活(第7のしるし)(11:1~44)
*ラザロの復活がもたらした結果(11:45~57)
*マリアによる油注ぎ(12:1~11)
*エルサレム入城(12:12~19)
*一粒の麦が死ぬとき(12:20~36)
2.注目すべき点
(1)過越の祭りの直前、十字架の「時」が間近に迫っている。
(2)ギリシア人(異邦人)が登場する。
(3)一粒の麦のたとえが語られる。
3.アウトライン
(1)ギリシア人の願い(20~22節)
(2)イエスの回答(23~26節)
(3)イエスの祈り(27~29節)
(4)群衆との対話(30~36節)
4.結論:今日の信者への適用
「一粒の麦のたとえ」から、霊的教訓を学ぶ。
Ⅰ.ギリシア人の願い(20~22節)
1.20節
Joh 12:20
さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
(1)過越の祭りは、3大巡礼祭の一つである。
①ユダヤ人の男性は、エルサレムに上ってこの祭りを祝うように命じられていた。
②ここに登場するのは、神を敬う異邦人か、ユダヤ教に改宗した異邦人である。
③彼らは、キリストを通して神を礼拝するようになる異邦人の象徴である。
2.21~22節
Joh 12:21
この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
Joh 12:22
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
(1)そのギリシア人たちが、イエスとの面会を希望した。
①彼らは、ピリポに仲介を依頼した。
②ピリポを「キュリオス」と呼んでいる。非常に丁寧な言い方である。
③ピリポはベツサイダ出身で、ギリシア名(馬を愛する者)を持つ唯一の使徒。
④ 「イエスにお目にかかりたいのです」
*これは、イエスに近づきたいという、深い霊的求めの表現である。
(例話)講壇の裏側に、このみことばが置かれている教会
⑤ギリシア人の求めは、全世界への救いの伝達が始まることの象徴である。
(2)ピリポはアンデレに相談し、2人でイエスのもとに行った。
①ピリポは、不安だったのだろう。
*これまでイエスは、異邦人伝道に消極的であった。
②それで、話し易いアンデレに相談したのであろう。
③イエスは、この情報によって時が近いことを実感した。
(3)ギリシア人たちは、直接イエスのところに行けなかったのであろう。
①神を敬う異邦人は、異邦人の庭までしか立ち入れない。
②改宗者の異邦人は、婦人の庭まで入れた。
③異邦人の庭とその先の庭の間には、隔ての壁が置かれていた。
*それを超えて行くことは、死罪に当たる。
*その隔ての壁(中垣)は、十字架によって取り去られた(エペ2:14~16)。
*その結果、ユダヤ人と異邦人は「新しいひとりの人」となった。
Ⅱ.イエスの回答(23~26節)
1.23~24節
Joh 12:23
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
Joh 12:24
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
(1)イエスは、その申し出には答えていないように見えるが、そうではない。
①イエスは、「死と復活のプログラム」について預言的に語っている。
(2) 「人の子が栄光を受ける時が来ました」
①「人の子」は、メシアの称号(ダニ7:13)。
②「栄光を受ける時」とは、十字架の時である(十字架の死、復活、昇天)。
③ほとんどの人たちにとって、死とは屈辱の体験である。
④イエスにとっては、十字架の死は栄光に至る門である。
(3) 「まことに、まことに、あなたがたに言います」
①厳粛な教えや宣言の前に言う定型句である。
②「アーメン、アーメン」
(4)一粒の麦のたとえ:逆転の原理
①一粒の麦が地に落ちてしななければ、それは一粒のままで残る。
②もし死ねば、豊かな実を結ぶ。
③もしイエスが死ななければ、彼一人が栄光の座に着く。
④死ねば、その死と復活を通して、多くの新しいいのちが生まれるようになる。
⑤その中には、異邦人信者も多く含まれている。
2.25~26節
Joh 12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
Joh 12:26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
(1)一粒の麦から導き出される一般原則
①ユダヤ的には、「愛する」「憎む」とは、優先順位の問題である。
②多くの人たちは、自己中心的な人生を送っている。
③その結果、霊的いのちを失っている。
④しかし、霊的いのちを優先させる者は、永遠のいのちに至る。
(2)弟子たちへの適用
①霊的いのちを優先させるとは、主イエスに仕えることである。
②イエスに従って自己犠牲の道を歩む者に祝福が約束されている。
③これは、より豊かな実をつけるために、自我に死ぬという原則である。
*伝道の実
*人格の実
④しかし、自己犠牲の道は、容易なことではない。
⑤イエスは次の祈りによって、ご自身の心の中を見せる。
Ⅲ.イエスの祈り(27~29節)
1.27~28節a
Joh 12:27
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
Joh 12:28
父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」
(1) 「今わたしの心は騒いでいる」
①人としてのイエスの苦悩が表現されている。
②自然な思いとしては、苦難と辱めの死を避けたい。
③しかし、「父よ。この時からわたしをお救いください」とは言わない。
④ 「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」
*メシアとしてのイエスの従順と献身を表したものである。
⑥「父よ。御名の栄光を現してください」と祈られた。
(2)天からの声とは何か。
①これをバット・コルという。
*洗礼の時(マタ3:17)
*変貌山において(マタ17:5)
*一粒の麦の話に続いて(ヨハ12:28)
② 「わたしはすでに栄光を現した」
*イエスの地上生涯において、神の栄光は現れた。
*イエスが行った種々の癒しと奇跡
③ 「わたしは再び栄光を現そう」
*死、埋葬、復活、昇天を通して、さらに大いなる栄光が現れる。
④この超自然的な声は、人々にイエスに関する真理を教えるためのものであった。
⑤しかし、その意味を理解した者はいなかった。
2.29節
Joh 12:29
そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。
(1)そばに立っていた群衆の反応
①雷が鳴った。単なる自然現象。
②天使がイエスに話しかけた。イエス個人への啓示。
Ⅳ.群衆との対話(30~36節)
1.30~32節
Joh 12:30
イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。
Joh 12:31
今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。
Joh 12:32
わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」
(1)イエスの招きのことば
①天からの声が聞こえたのは、その場にいた群衆のためである。
②イエス自身は、その声を必要としていない。
(2) 「今、この世のさばきが行われ、」
①この世は、イエスのメシア性を拒否し、イエスを十字架につけようとしている。
②その不信仰のゆえに、この世(神に背く秩序)は裁かれる。
(3) 「今、この世を支配する者が追い出されます」
①イエスの死は人類の救いとサタンに対する勝利をもたらした。
②サタンはその権威を失う。
*判決は確定したが、その執行はまだ途上にある。
*最終的には、火の池に投げ込まれる(黙20:10)。
(4) 「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄
せます」
①「地上から上げられる」とは、十字架の死のことである(イザ52:13参照)。
*イエスは、ご自分がどのような死に方をするか知っていた。
②その後、すべての人がイエスのもとに引き寄せられる。
*これは、すべての民族に救いが提供されるという意味である。
*これは、ギリシア人の願いに対する回答である。
2.33節
Joh 12:33
これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。
(1)「地上から上げられる」の意味を理解できなかった読者のための説明である。
2.34節
Joh 12:34
そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは律法によって、キリストはいつまでも生きると聞きましたが、あなたはどうして、人の子は上げられなければならないと言われるのですか。その人の子とはだれですか。」
(1)群衆にはイエスの語った内容が理解できない。
①彼らは、メシアは死なないと教えられていた(イザ9:6~7、ダニ7:14)。
②彼らは、受難のしもべと栄光の王の区別ができていなかった。
3.35~36節
Joh 12:35
そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。
Joh 12:36
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」/イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
(1)イエスは、問題は倫理的、道徳的なものであると教える。
①光と闇のテーマが繰り返される。
②イエスは光である。
③その光が間もなく消え、闇が襲おうとしている。
④光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなければならない。
⑤いつでも決断できると考えるのは、愚かなことである。
⑥今は「恵みの時、救いの時」である。
(3) 「立ち去って彼らから身を隠された」
①公生涯最後のメッセージが終わった。
②恵みの時代はいつまでも続かない。
結論:今日の信者への適用
1.十字架は敗北ではなく、神の栄光の頂点である。
(1)栄光とは、成功や繁栄のことではない。
(2)神は、苦難や自己犠牲を通して働かれる。
(3)自分の人生の意味を十字架の視点で再評価しよう。
2.実を結ぶ人生は、自己愛ではなく、自己放棄の中にある。
(1)イエスは、一粒の麦が死ぬときに何が起こるかを教えた。
(2)信者は、イエスの生き方に倣うように召されている。
3.光があるうちに、信仰の決断をする。
(1)神の恵みの機会は、永遠には続かない。
(2)「光がある今、この方に従おう」という緊張感を持って福音に応答する。
(3)求道生活が長い人にとっては、真剣な問いとなる。
4.十字架は、すべての人を引き寄せる力である。
(1)私たちは「人を引き寄せる者」ではなく、「引き寄せる主を証しする者」。
(2)伝道において、十字架の力と聖霊の働きに信頼しよう。
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