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ヨハネの福音書(28)「生まれつきの盲人の癒し(2)」ヨハ9:13~41
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イエスは、私たちの霊の目を開くお方である。
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ヨハネの福音書(28)
「生まれつきの盲人の癒し(2)」
ヨハ9:13~41
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)
*世の光に関する説教(8:12~59)
*第6のしるし:生まれつきの盲人の癒やし(9章)
2.注目すべき点
(1)十字架にかかる前の年の仮庵の祭り(半年前)
(2)生まれつきの盲人の癒やしは、7つのしるしの第6番目。
(3)これは、イエスのメシア性を示すメシア的奇跡である。
3.アウトライン
(1)本人の尋問(13~17節)
(2)両親の尋問(18~23節)
(3)2度目の本人の尋問(24~34節)
(4)霊の目の癒し(35~41節)
3.結論:今日の信者への適用
イエスは、私たちの霊の目を開くお方である。
Ⅰ.本人の尋問(13~17節)
1.13~14節
Joh 9:13
人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
Joh 9:14 イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。
(1)群衆は、目が開いた人をパリサイ人たちのところに連れて行った。
①群衆は、これを良い知らせと受け取り、指導者たちの裁定を仰ぐために動いた。
(2)しかし、この癒やしは安息日に行われた。
①パリサイ人たちは、安息日の癒しは律法違反だと考えていた。
2.15~16節
Joh 9:15
こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。
Joh 9:16
すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。
(1)この男は、自分の経験をそのまま証言した。
①あの方が目に泥を塗ってくれた。
*「あの方」と言っている。イエスは有名になっていた。
②私が洗った。
③そしたら、見えるようになった。
④神の約束と人間の責務が表現されている。
(2)パリサイ人たちの間に、意見の対立が起こった。
①安息日を守らない者は、神から出た者ではない。
②罪人である者に、このようなしるしを行うことはできない。
3.17節
Joh 9:17
そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。
(1)彼らは、再度この男に質問した。
①自分たちの間で分裂が起こっているから。
(2)この男の信仰は成長している。
①まだイエスを神とは信じていない。
②しかし、預言者と認めている。
・旧約聖書の預言者たちは、神から遣わされて奇跡を行った。
Ⅱ.両親の尋問(18~23節)
1.18~19節
Joh 9:18
ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、ついには、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
Joh 9:19
尋ねた。「この人は、あなたがたの息子か。盲目で生まれたとあなたがたが言っている者か。そうだとしたら、どうして今は見えるのか。」
(1)パリサイ人たちは、癒やしが起こったことを信じたくなかった。
①何かの手違いがあったのではないか。
②両親なら、一番よく知っているはずだ。
③本人なのかどうか、また、どのようにして癒やされたのか。
2.20~21節
Joh 9:20
そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。
Joh 9:21
しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたの
かも知りません。本人に聞いてください。もう大人です。自分のことは自分で話すでしょう。」
(1)両親は、責任を回避した。
①この男は、彼らの息子である。
②彼が、生まれつき盲目だったことは知っている。
③証言能力のある年齢なので、本人に聞いてほしい。
3.22~23節
Joh 9:22
彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。
Joh 9:23
そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。
(1)ユダヤ人たち(霊的指導者たち)は、イエスのメシア性を拒否していた。
①もしイエスをメシアだと告白するなら、会堂から追放すると決めていた。
②会堂から追放されると、経済的、社会的、宗教的基盤を失う。
(2)会堂が行う懲戒の3つの段階
①Neziphah:7日間の追放
②Niddui:30日間の追放
③Cherem:完全な追放と社会的な交流の断絶
(3)ヨハネの福音書の最初の読者の視点
①紀元70年までは、長老たちが共同体の中で裁き司の役割を担っていた。
②紀元70年以降、パリサイ人たちがその役割を担った。
③ヨハネの福音書は、紀元90年代に書かれた。
④最初の読者の多くは、シナゴーグからの追放を経験していた。
⑤彼らは、シナゴーグから追放されたが、イエスを礼拝する特権を得た。
Ⅲ.2度目の本人の尋問(24~34節)
1.24~25節
Joh 9:24
そこで彼らは、目の見えなかったその人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」
Joh 9:25
彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
(1)「神に栄光を帰しなさい」の意味について、2つの可能性がある。
①誓いを求める。「自分が嘘をついていたと認めよ」
②イエスに栄光を帰すことを禁じる。「癒しのゆえに、神をたたえよ」
(2)彼は、知らないことと、知っていることを、区別して証言した。
①イエスが罪人かどうか、知らない。
②しかし、盲目であったのに、今は見えるということは知っている。
2.26~27節
Joh 9:26
彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしておまえの目を開けたのか。」
Joh 9:27
彼は答えた。「すでに話しましたが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」
(1)同じ質問を受けて、この男は苛つき始めた。
①話したが、聞いてもらえなかった。
②なぜもう一度聞こうとするのか。
③イエスの弟子になりたいのか。これは皮肉である。
(2)パリサイ人にとっては、これ以上の侮辱はない。
①無学な物乞いが、学のある自分たちに、意見している。
②しかも、自分たちが最も忌み嫌っている内容を口にしている。
3.28~29節
Joh 9:28
彼らは彼をののしって言った。「おまえはあの者の弟子だが、私たちはモーセの弟子だ。
Joh 9:29
神がモーセに語られたということを私たちは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
(1)この男の証言を崩せないので、証言している本人を攻撃する。
①お前はイエスの弟子だ。これは、最悪の罪である。
②自分たちは、モーセの弟子だ。これは、最高の特権である。
③神がモーセに語ったことは知っている。
④しかし、イエスがどこから来たかは知らない。
(2)彼らの主張は矛盾である。
①モーセの教えを知っているなら、イエスをメシアと信じたはずである。
②モーセよりも偉大な方が彼らの前に現れたのに、その方を信じない。
4.30~33節
Joh 9:30
その人は彼らに答えた。「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなたがたが知らないとは。あの方は私の目を開けてくださったのです。
Joh 9:31
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
Joh 9:32
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
Joh 9:33
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
(1)彼は、皮肉から攻撃へ転じた(自立して考え始めている)。
①パリサイ人たちは、霊的指導者たちである。
②なのに、盲人の目を開けた方がどこから来たかを知らないという。
③恥を知れ。
④神は、罪人の言うことをお聞きにならない(ユダヤ教の教えの中心)。
⑤あの方が生まれつきの盲人の目を開けたのは、神から出ているからだ。
5.34節
Joh 9:34
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
(1)彼らは、再び、この男を虐待した。
①盲目に生まれついたことと、特定の罪を結びつけた。
②この男に教える資格はある。彼は体験したので、教える資格はある。
(2) 「彼を外に追い出した」
①神殿の外ではなく、会堂から追い出したという意味である。
②これは、Cherem(完全な追放と社会的な交流の断絶)の段階である。
Ⅳ.霊の目の癒し(35~41節)
1.35~36節
Joh 9:35
イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
Joh 9:36
その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
(1)イエスが彼を見つけ出した。
①「あなたは人の子を信じますか」と尋ねた。
②彼は、まだイエスが誰かを知らない。霊の目はまだ開いていない。
2.37~38節
Joh 9:37
イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
Joh 9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
(1)イエスは、あなたと話している私がメシアであると言われた。
①彼は、信仰によって応答した。
②ユダヤ人は、人を礼拝しない。
*イエスが癒やし主だという理由では、礼拝しない。
③イエスが神の子であると信じたので、礼拝している。
④彼は、肉の目も霊の目も開かれた。
3.39節
Joh 9:39
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
(1)イエスの奉仕の目的
①目が見えないと認める人は、目が見えるようになる。
②目が見えると思っている人は、盲目のままにとどまる。
4.40~41節
Joh 9:40
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
Joh 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
(1)「私たちも盲目なのですか」は、傲慢な質問である。
①これは、否定的な回答を要求する質問である。
(2)イエスの回答
①自分が盲目だと認めていたなら、罪の程度は軽かっただろう。
②しかし、目が見えると言っているので、重い罪がそのまま残る。
結論:今日の信者への適用
1.光と闇の隔たりは、時間とともに大きくなる。
(1)イエスは「世の光」として生まれつきの盲人の目を開いた。
(2)さらにイエスは、この男の霊の目も開いた。
(3)パリサイ人たちは、霊的な盲目のままであった。
(4) 偏見や先入観によって真実を見失うのは、悲劇である。
2 .愛は、 形式主義に勝つ。
(1)パリサイ人たちは、安息日に癒しを問題視し、形式に固執した。
(2) イエスは、人々の必要に応えることを優先した。
(3)愛は、形式や規則を乗り越える。
3.神を体験した個人の証言には、力がある。
(1)盲人であった男は、自身の体験をもとにイエスの力を証言した。
(2)
彼のシンプルで力強い証言は、周囲の人々に大きな影響を与えた。
(3)霊的覚醒は、一人の人から始まる。
4.私たちの信仰は、成長する。
(1)男 は、最初はイエスを「預言者」と認識していた。
(2)後に「神からの人」と認識した。
(3)最終的には「主」として信じ、礼拝した。
(4)私たちの信仰も、段階的に成長する。
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