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ヨハネの福音書(27)「生まれつきの盲人の癒し(1)」ヨハ9:1~12
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イエスは世の光であり、彼に従う者は霊的に目が開かれる。盲人の癒しのステップを見れば、それが分かる。
ヨハネの福音書(27)
「生まれつきの盲人の癒し(1)」
ヨハ9:1~12
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)
*世の光に関する説教(8:12~59)
*第6のしるし:生まれつきの盲人の癒やし(9章)
2.注目すべき点
(1)十字架にかかる前の年の仮庵の祭り(半年前)
(2)生まれつきの盲人の癒やしは、7つのしるしの第6番目。
(3)これは、イエスのメシア性を示すメシア的奇跡である。
(4)ヨハ8:12の宣言の直後に起きた奇跡である。
Joh 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
3.アウトライン
(1)奇跡の序章(1節)
(2)世の光としての使命(2~5節)
(3)シロアムの池での奇跡(6~7節)
(4)証しの始まり(8~12節)
4.結論:今日の信者への適応
イエスは世の光であり、彼に従う者は霊的に目が開かれる。
盲人の癒しのステップを見れば、それが分かる。
Ⅰ.奇跡の序章(1節)
1.1節
Joh 9:1さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
(1)盲人は、他者の慈善によってしか生きる道はなかった。
①神殿に近い場所が、最も収入を得られる場所である。
②使3:2では、生まれつき足のなえた人が、「美しの門」に置かれていた。
(2)「イエスは……ご覧になった」
①イエスが盲人を見つけた。
②神の働きは、人間の求めに先立ってなされる。
*ヨハ5:6のベテスダの池での癒し
*ロマ5:8の「私たちがまだ罪人であったときに」
③盲人は、霊的な盲目を象徴している。
*ヨハネの福音書では、「光」と「闇」のテーマが頻繁に登場する。
*光(イエス・キリスト)を受け入れない人は、「霊的な盲目」状態にある。
*「肉体的な視力の回復」と「霊的な目が開かれること」の関係(ヨハ9章)
Ⅱ.世の光としての使命(2~5節)
1.2節
Joh 9:2
弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
(1)ユダヤ人たちは、因果応報的な考え方をしていた。
①病気や障害は、本人またはその先祖の罪の結果だと考えられていた。
(2)弟子たちは、二択の質問をした。
①彼自身の罪のゆえに、盲目に生まれついたのか。
*胎児には、善の性質と悪の性質が与えられている。
*悪の性質が勝つと、敵意をもって母親の腹を蹴飛ばすようになる。
*これは、両親を敬わない罪である。
*エサウとヤコブは、胎内で争った(創25:22)。
②両親の罪のゆえに、盲目に生まれついたのか。
*もしそうなら、彼は不当に罰を受けていることになる。
(3)イエスは、第3の答えを持っておられる。
①過去の原因探しよりも、神が苦難をどのように用いられるかを考えるべき。
2.3節
Joh 9:3
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
(1)イエスは、因果応報を否定された。
①人間が苦しみを経験する根本的な理由は、アダムの堕落にある。
*人間は、原罪を持って生まれてくる(ロマ5:12)。
②この盲人のケースは、「特定の罪の結果としての罰」ではない。
*それは、神の計画の一部としての苦しみである。
*神は、この人が盲目で生まれることを許された。
*神のわざがこの人に現れるためである。
(2)イエスは、新しい視点を提供された。
①この文脈での「神のわざ」とは何か。
*肉体的な癒しによって神の力が示されること
*霊的な目が開かれること(信仰に至ること)
3.4~5節
Joh 9:4
わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
Joh 9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
(1)日常的な体験を用いた教え
①夜間に働いているのは、城壁の見張り人か、羊飼いくらいである。
②人は、昼の間に働き、夜は休む。
(2)「わたしたちは」
①イエスの働きが弟子たちにも委ねられていることを示唆している。
②イエスの地上での働きは限られていたが、その後の伝道は教会が引き継ぐ。
(3)イエスにとっては、昼の間とは、公生涯の期間である。
①イエスは、十字架の時が迫っていることを知っておられた。
②時が与えられている間に、自分を遣わしてくださった父なる神のわざを行う。
③イエスは、「わたしが世の光」であることを示すためにこの盲人を癒す。
④十字架の時、イエスの働きは一時的に終わる(弟子たちも散る)。
⑤しかし、復活後、弟子たちが聖霊を受けて再び働きを開始する(使2章)。
Ⅲ.シロアムの池での奇跡(6~7節)
1.6節
Joh 9:6
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
(1)イエスは、唾で泥を作られた。
①アダムは、地のちりから造られた。それと同じ物質である。
*盲人の癒やしは、霊的な再生の象徴である。
②「唾」には治癒の力があると信じられていた。
*この盲人が「信仰を持つ」助けになった可能性が考えられる。
*この後、彼は、シロアムの池に行くように命じられる。
*癒やしは、信仰と従順の行為を通して完成する。
(2)この方法は、パリサイ人たちとの論争を喚起するためのものである。
①イエスは、安息日に癒しを行おうとしている。
②口伝律法では、安息日に行ってはならない癒しの方法が例示されている。
*目にぶどう酒を塗る。
*目に唾で作った泥を塗る。
2.7節
Joh 9:7
「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
(1)シロアムの池は、エルサレムの南端にある池である。
①ここには、ことば遊びがある。
*ヘブル語で「シロアム」は「遣わされた者」の意味である。
②イエスは、父なる神から遣わされて、御業を行っている。
③盲人がシロアムの池に行くことは、イエスへの信仰と従順の行為となる。
④水で洗うことは、霊的な清めや新しいいのちの象徴である。
(2)この池は、仮庵の祭りの期間、エルサレムで最もにぎやかな場所となっていた。
①この癒やしは、群衆が注目する中で行われた。
②盲人は、イエスの命令通りに行い、癒やされた。
③もしイエスがメシアなら、どうして安息日に癒やすのかという反発が起こる。
Ⅳ.証しの始まり(8~12節)
1.8~9節
Joh 9:8
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
Joh 9:9
ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
(1)人違いではないかという議論が起こった。
①盲人の様相が、激変したことがうかがわれる。
(2)当人は、自分がそれだと言い張った。
①彼は、イエスの本質をまだ理解していない。
②しかし、自分が癒された事実を大胆に宣言した。
2.10~11節
Joh 9:10
そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
Joh 9:11
彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
(1)「目が開かれたこと」そのものより、「誰がそれをしたのか」が議論の中心になる。
①これは、イエスのアイデンティティを問う質問である。
(2)彼は、事実をありのままに述べた。
①「イエスという方」
*イエスを「主」や「神の子」とは認識していない。
*彼は盲人だったので、一度もイエスを見たことがない。
②「それで、行って洗うと、見えるようになりました」
*イエスのことばに従った結果、奇跡が起こったことを強調している。
3.12節
Joh 9:12
彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。
(1)「その人はどこにいるのか」
①信仰による探求なのか、疑いによる追及なのか、明確ではない。
(2)「知りません」
①見たことがないので、その人がどこにいるのか、知らない。
②肉体的な目は開かれたが、霊的な目は閉ざされたままである。
③信仰は、成長するものである。
結論:今日の信者への適用
1.試練の意味を神の視点で捉える。
(1)試練は、神の栄光が現れる機会となる可能性がある。
(2)試練に遭ったとき、神の計画がなんであるか祈り求めよう。
2 .イエスの方法に信頼する。
(1)癒やしはすぐには起こらなかった。
(2)目に泥を塗られ、シロアムの池で洗うよう指示された。
(3)盲人は、幾多の障害を乗り越えて、その指示に従った。
(4)私たちの思いをはるかに超えた神の方法に信頼しよう。
3.信仰が成長することを期待する。
(1)盲人は、「イエスによって癒された」と証言した。
(2)イエスが誰なのか深く理解していなくても、自分の経験を証しした。
(3)周囲の人の反応に左右されなかった。
4 .奇跡は、「シロアムの池」で起こることを覚える。
(1)「シロアム」は「遣わされた者」という意味(7節)。
(2)これは、イエスご自身を象徴している。
(3)私たちの救いと導きは「遣わされたイエス」にある。
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