私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
ヨハネの福音書(26)解放者イエス(2)ヨハ8:51~59
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このメッセージでは...
イエスは、死からの解放者である。
ヨハネの福音書(26)
解放者イエス(2)
ヨハ8:51~59
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
⑧3度目のエルサレム訪問(7:10~10:42)
⑨世の光に関する説教(8:12~59)
*世の光イエス(8:12~20)
*唯一の救い主イエス(8:21~30)
*解放者イエス(8:31~59)
2.注目すべき点
(1)場面は、十字架にかかる半年前の仮庵の祭りである。
(2)「いのちの水」への招きの後、指導者たちによる迫害が激化する。
(3)「世の光」の説教は、7つの説教の中の5番目である。
3.アウトライン
(1)罪からの解放者(31~39a節)
(2)悪魔からの解放者(39b~50節)
(3)死からの解放者(51~59節)
*私たちは、この箇所を通して解放者イエスに出会おうとしている。
*今回は、(3)を取り上げる。
4.結論:3つの教訓
イエスは、死からの解放者である。
Ⅲ.死からの解放者(51~59節)
1.51節
Joh 8:51
まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」
(1)この宣言は、非常に重要である。
①「まことに、まことに、」は「アーメン、アーメン」である。
②ヘブル語で、「真実である」「確かである」「そうである」の意味。
③重要な宣言の前に、注意を喚起するために用いられる。
④2重のアーメンは、ヨハネの福音書だけのもの(25回)。
(2)この宣言は、福音そのものである。
①「その人はいつまでも決して死を見ることがありません」
*この死は、肉体の死ではなく、第二の死(永遠の死)である。
*第二の死とは、永遠に神から切り離されることである。
*ヨハ3:16では、「滅びる」と表現される状態である。
②「だれでもわたしのことばを守るなら」
*ヨハ8:31では、「わたしのことばにとどまるなら」と言われていた。
*「ことばを守るなら」とは、業による救いのことではない。
*これは、イエスを信じた結果生まれる行為を意味している。
③このような宣言ができるのは、神しかいない。
*イエスのことばには権威がある。
*イエスを信じる者は、イエスのことばにとどまる。
*その人は、第二の死から解放されている。
2.52節
Joh 8:52
ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。
(1)ユダヤ人たちは、「死を見ることがありません」を肉体的死と誤解した。
①アブラハムや預言者たちでさえも死んだ。
②信仰者でも死ぬという矛盾を、どう説明するのか。
③イエスは、悪霊につかれている。
④以前よりも深く、イエスが悪霊につかれていることを確信した。
3.53節
Joh 8:53
あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」
(1)この質問は、「ノー」という回答を予想する形になっている。
①イエスが「私たちの父アブラハム」よりも偉大であるはずがない。
②アブラハムや預言者たちは死んだ。
③彼らは、他人を救うどころか、自分自身を死から救うことさえできなかった。
④なのに、イエスは他人を死から救うことができると教えている。
⑤イエスは、自分のことをだれだと思っているのか。
⑥イエスは、自分が目立つために活動しているのだろう。
(2)ここには、2重の誤解がある。
①イエスは、アブラハムよりも偉大である。
②イエスは、自分に関心を向けさせるために働いているのではない。
4.54節a
Joh 8:54a
イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。
(1)イエスは、ユダヤ人たちの誤解を解く。
①ヨハ8:50でイエスは、自分で自分の栄光を求めないと言われた。
②自分で自分に栄光を帰すなら、それはむなしいものである。
③父なる神がイエスを弁護し、イエスに栄光を与える。
5.54b~55節
Joh 8:54b この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。
Joh 8:55あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。
(1)イエスは、ユダヤ人たちのことを偽り者と呼ぶ。
①彼らは、天の父を「私たちの神である」と言っている。
②これは、神との契約関係を示すことばである。
*申6:4
Deu 6:4 聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。
③ユダヤ人たちは、自分たちだけが唯一の神を知っていると思っていた。
*しかし、彼らは天の父を知らない。
④彼らは、神を「私たちの神」と呼びながらも、神の御子を拒んでいた。
⑤表面的には神を知っていると言いながら、実際には知らない状態にあった。
⑥彼らは、偽り者である。
*彼らの父は「悪魔」である。
*父が偽り者なので、彼らもまた偽り者となる。
(2)しかし、イエスは偽り者ではない。
①イエスは父を知っており、そのみことばを守っている。信じる=守る。
②ユダヤ人たちは、イエスが父と同等でないと信じていた。
③しかし、イエスの場合は、もし父を知らないと言うなら偽り者となる。
6.56節
Joh 8:56
あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」
(1)彼らがアブラハムに言及したので、イエスはそれに応答する。
①「あなたがたの父アブラハム」とは、肉体的な関係のことである。
②「わたしの日」はメシア到来のことであり、メシアがもたらす救いのこと。
(2)アブラハムはいつ、それを見て喜んだのか。
①ユダヤ教の伝統が強調すること
*イスラエルを抑圧する諸帝国と、その先のメシア時代の啓示を受けた。
②創12:3の中に、それを見たのかもしれない。
Gen 12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、/あなたを呪う者をのろう。/地のすべての部族は、/あなたによって祝福される。」
③あるいは、イサクを献げたときに、それを見たのかもしれない。
*イサク奉献は、メシアの死と復活の予表である。
*アブラハムは、信仰によってそのことを理解した。
7.57節
Joh 8:57
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」
(1)ユダヤ人たちの誤解
①イエスは、アブラハムを見たとは言っていない。その逆である。
②彼らは、イエスとアブラハムが同時代人であるはずがないと考えた。
③イエスの当時の年齢は、33歳前後である。
④当然、50歳にはなっていない。
⑤50歳は、祭司としての役割を終える年齢である。
⑥老年の象徴の年齢である。まだ老年にはなっていないという意味。
8.58節
Joh 8:58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」
(1)ここでも、「アーメン、アーメン」が出てくる。
①「わたしはある」は、イエスによる神性宣言である。
②イエスの永遠性が啓示されている。
③出3:14に登場する神の自己紹介と密接に関係している。
Exo 3:14
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
④イエスは、明確な神性宣言をされた。
⑤「わたしはアブラハムよりも前から存在していた」だけでなく、「わたしは
神そのものである」。
9.59節
Joh 8:59
すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。
(1)今度は、誤解はなかった。
①イエスは、自分が神だと主張された。
②ユダヤ的には、自分はメシアだと宣言しても、冒涜罪に当たらない。
③しかし、自分を神と等しくすることは冒とく罪に当たる。
④そこで彼らは、イエスに石を投げつけようとした。
⑤神殿は工事中なので、投げられるような石が多数あった。
(2)石を投げられそうになった旧約聖書の人々
①モーセ(出17:4)
②ヨシュアとカレブ(民14:10)
③ダビデ(1サム30:6)
(3)しかし、彼らはイエスを逮捕することができなかった。
①十字架の時がまだ来ていなかったから。
結論 :3つの教訓
1.イエスは、誰か。
(1)単なる教師ではなく、神ご自身である。
(2)イエスは「わたしはある」と宣言された。
(3)イエスは真の神であり、私たちの信仰の中心である。
(4)イエスを見た者は、神を見たのである。
2.イエスのことばを守るとは、どういう意味か。
(1)イエスのことばを守るということは、信じ、行うことである。
(2)神のことばを守る者は「決して死を見ることがない」。
(3)ここでの「死」は、肉体の死ではなく、第二の死(最終的な裁き)である。
(4)イエスのことばを守る者は、霊的に生きる(神との交わり)。
3 .キリスト教とは、何か。
(1)キリスト教とは、知識の体系ではなく、イエスとの生ける関係である。
(2)ユダヤ人たちは、神を知っているつもりでいたが、そうではなかった。
(3)形式的な宗教や伝統ではなく、神との生きた関係が重要である。
(4)単に教会に通うことや宗教的な行いをすることが、信仰ではない。
(5)イエス・キリストとの生ける関係を維持することが真の信仰である。
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