私たちはプロテスタントのキリスト教福音団体です。『1. 聖書のことばを字義どおりに解釈する 2. 文脈を重視する 3. 当時の人たちが理解した方法で聖書を読む 4. イスラエルと教会を区別する』この4点を大切に、ヘブル的聖書解釈を重視しています。詳しくは私たちの理念をご確認ください。
ヨハネの福音書(16)いのちのパンの説教(2)ヨハ6:41~59
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いのちのパンの説教について学ぶ。
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ヨハネの福音書(16)
いのちのパンの説教(2)
ヨハ6:41~59
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
*第4のしるし:5,000人の給食(6:1~15)
*第5のしるし:水上歩行(6:16~21)
*いのちのパンの説教(6:22~59)
説教への応答(6:60~7:9)
2.注目すべき点
(1)「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハ1:17)
①5,000人の給食は、「恵み」の成就である。
②いのちのパンの説教は、「まこと」の啓示である。
(2)イエスは、「比ゆ」を用いてご自身の本質を教えられた。
(3)「いのちのパン」の説教は、ユダヤ人たちにとっては難解であった。
(4)イエスはその意味を詳細に解説された。
3.アウトライン :いのちのパンの説教(2)
(1)イエスの宣言(6:41~51)
(2)ユダヤ人たちの疑問(6:52~59)
4.結論
(1)聖餐式との関係
(2)多様な比ゆ的ことば
いのちのパンの説教について学ぶ。
Ⅰ.イエスの宣言(6:41~51)
1.41~42節
Joh 6:41
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
Joh 6:42
彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
(1)ガリラヤのユダヤ人たちは、つぶやいた。
①荒野を旅するユダヤ人たちがつぶやいたように。
②「わたしは天から下って来たパンです」ということばを理解できない。
③その主張と彼らがイエスについて知っていることが、かけ離れている。
④彼らは、イエスがヨセフの子であることを知っていた。
⑤彼らは、ヨセフとマリアを知っていた。
2.43~44節
Joh 6:43
イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
Joh 6:44
わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
(1)彼らは、イエスの主張とイエスの出自の間に矛盾があると感じていた。
①イエスは、彼らがつぶやいていることを見抜き、それを叱責された。
(2)イエスは、どういう人が救われるかを示された。
①イエスを信じる人とは、父なる神によって引き寄せられた人である。
②彼らは、イエスを信じた結果、より深い理解に至る。
③イエスは彼らを終わりの日によみがえらせる。
*携挙の時によみがえらせる。
④神の選びが先行するが、人間の責任がなくなるわけではない。
*神の主権と人間の自由意志は、ともに受け入れる必要がある。
3.45節
Joh 6:45
預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
(1)イエスを信じる者は、父なる神から聞いて学んだ者である。
①彼らは、イエスの本質について父なる神から学ぶ(聖書を通して)。
②この教えの根拠は、イザ54:13である。
Isa 54:13 あなたの子たちはみな、【主】によって教えられ、/あなたの子たちには豊かな平安がある。
4.46節
Joh 6:46
父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。
(1)神を啓示するのは、御子イエスだけである。
①父を見た者はだれもいない。
②神が遣わしたイエスだけが神を見た。
③人は、神と人の唯一の仲介者であるイエスから学ぶことによって父を知る。
④聖書は、このことについて証言している。
5.47~48節
Joh 6:47
まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
Joh 6:48 わたしはいのちのパンです。
(1)ここでは、人間の責務が教えられている。
①父なる神の選びが先行する。
②人間の側の応答が要求される。
(2)「まことに、まことに」
①厳粛な教えが語られる。
*業による救いではなく、信仰による救いが語られる。
②「信じる者は永遠のいのちを持っています」
*「わたしを」ということばが省略されている。
③信じるとは、神の選びに対する自然な応答である。
④人は、信じた瞬間に永遠のいのちの実質を味わい始める。
(3)「わたしはいのちのパンです」
①これまで語られてきた「いのちのパン」とは、イエスのことである。
②イエスは「いのちを与えるパン」である。
③イエスを信じるなら、永遠のいのちが与えられる。
6.49~50節
Joh 6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
Joh 6:50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
(1)ユダヤ人たちは、マナと同じようなものを与えてほしいと要求した。
①そこでイエスは、荒野で与えられたマナといのちのパンを対比させる。
(2)対比
①先祖たちは荒野でマナを食べ、一時的な満足を得た。
*しかし、最後は死んだ。
②イエスは天から下って来たパンである。
*イエスを信じる者は永遠のいのちを得、死ぬことがない。
7.51節
Joh 6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
(1)いのちのパンは、「天から下って来た生けるパン」である。
①このパンを食べるなら(信じるなら)、永遠に生きる。
②肉体的に死んでも、やがて復活し、天において永遠に生きる。
(2)父なる神がいのちのパンを与えた。
①ここでは、いのちのパンであるイエスが、自らの肉を与える。
②目的は、「世のいのちのため」である。
③イエスは、十字架の死を指し示している。
Ⅱ.ユダヤ人たちの疑問(6:52~59)
1.52節
Joh 6:52
それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
(1)彼らは、肉的レベルで考えているので、イエスのことばが理解できない。
①「どうやって自分の肉を人に食べさせることができるか」
②互いに激しい議論を始めた。
2.53~54節
Joh 6:53
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
Joh 6:54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
(1)賢明な読者なら、イエスが比ゆ的ことばを使っていることが分かる。
①イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは、イエスの人格を信じること。
②聖餐式でパンとぶどう酒に与ることではない。
③まず否定的に真理が語られる。
*イエスを信じなければ永遠のいのちを持っていない。
④次に肯定的に真理が語られる。
*イエスを信じる者は、永遠のいのちを持っている。
*イエスは終わりの日(携挙の時)にその人をよみがえらせる。
3.55節
Joh 6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
(1)「肉」と「血」は、イエスの人格の象徴である。
①イエスは、「まことの食べ物」であり「まことの飲み物」である。
②それゆえ、イエスは信じる者に永遠のいのちを与えることができる。
4.56節
Joh 6:56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
(1)信者とイエスの関係が比ゆ的に語られる。
①飲食した肉や飲み物は体内にとどまり、その人の一部となる。
②イエスを信じた者は、イエスのうちにとどまる。
③イエスもその人のうちにとどまる。
④これ以上親密な関係はない。
5.57節
Joh 6:57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
(1)信者とイエスの関係が第2の比ゆによって説明される。
①父なる神は、イエスを地上に遣わした。
*「生ける父」とは、「いのちの源である父」という意味である。
②父なる神とイエスの間には、完全な調和と一致がある。
③それと同じように、信者とイエスの間にも完全な調和と一致がある。
6.58節
Joh 6:58
これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
(1)これまでの教えの要約が語られる。
①イエスは、天から下って来たパンである。
②先祖が食べて、なお死んだマナのようなものではない。
③このパンを食べる者(信じる者)は永遠に生きる。
7.59節
Joh 6:59
これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
(1)イエスが「いのちのパン」について教えたのは、カペナウムの会堂であった。
①カペナウムは、イエスの伝道の拠点であった。
②群衆は、イエスの後を追ってカペナウムまで来た。
③彼らは、会堂でイエスの教えを聞いた。
結論
1.聖餐式との関係
(1)ヨハ6:50
Joh 6:50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
(2)文字通りの解釈は、嫌悪感を催すものであり、どう考えてもあり得ない。
(3)ある人たちは、これを聖餐式のことだと解釈する。
①祈りによって、パンはイエスの肉に、ぶどう酒はイエスの血に変化する。
②このパンとぶどう酒に与ることが、救いの条件である。
(4)しかし、この解釈は業による救いを教えたもので聖書的ではない。
(5)この聖句は、比ゆ的に解釈することが字義どおりの解釈となる。
2.多様な比ゆ的ことば
(1)ヨハ6:35
Joh 6:35
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
①「わたしのもとに来る」=「わたしを信じる」
(2)ヨハ6:40
Joh 6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
①「子を見て」=「信じる」
(3)ヨハ6:45
Joh 6:45
預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
①「父から聞いて学んだ」=「わたしのもとに来ます」
(4)ヨハ6:51
Joh 6:51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
①「食べる」=「信じる」
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