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ヨハネの福音書(11)第3のしるしヨハ5:1~18
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2度目のエルサレム訪問について学ぶ。
ヨハネの福音書(11)
第3のしるし
ヨハ5:1~18
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
2.注目すべき点
(1)1~4章は、イエスの奉仕を外側から描写している。
(2)5~10章は、イエスの内面を描写している。
(3)1~4章は、ユダヤ、サマリア、ガリラヤでの個人に対する奉仕の記録。
(4)5~10章は、パリサイ人たちとの論争の記録。
(5)第1と第2のしるしは、個人に対するものである。
(6)第3と第4のしるしは、公の場で行われるものである。
(7)5~10章で、信仰と不信仰の亀裂が深まる。
3.アウトライン:2度目のエルサレム訪問
(1) 第3のしるし(5:1~9)
(2)パリサイ人たちの敵意(5:10~18)
(3)父と子は同等(5:19~29)
(4)父の証言(5:30~47)
4.結論
(1)祭りの名前が出てくる箇所
(2)5:1の祭り
(3)5章の病人と9章の盲人の対比
2 度目のエルサレム訪問について学ぶ。
Ⅰ.第3のしるし(5:1~9)
1.1節
Joh 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
(1)イエスは、祭りを祝うためにエルサレムに上られた。
①ヨハネは、どの祭りであるかを明確にしていない。
②ここでのイエスの奇跡と教えは、特定の祭りと関係したものではない。
③ヨハネは、イエスがエルサレムに戻ったという情報だけを伝えている。
2.2節
Joh 5:2
エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。
(1)「羊の門」
①エルサレムの北東にある門(現在のライオン門)
②この門から、いけにえの羊を運び入れたので、この名が付いた。
③ヨハネは、「歴史的現在形」を用いている。
④ヨハネがこれを書いたときには、エルサレムは崩壊していた。
(2)「ベテスダと呼ばれる池」
①現在の聖アンナ教会の敷地内にあった池
②縦約90m、横約66m(50m)
③「五つの回廊」があった。4辺+中央の仕切りで、5つとなる。
3.3~5節(4節は後代の付加)
Joh 5:3
その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。
Joh 5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。
(1)古代には、癒やしの宮(神殿)というものが多く存在していた。
①代表的なものは、アスクレピアス(アポロの息子)の神殿である。
②癒やしを受ける条件は、隣接する泉や湧き水で身を清めること。
③この箇所では、イエスが癒やしの宮以上の方であることが証明される。
(2)肉体的癒やしを待つ人々が大勢そこに伏せっていた。
①彼らは、水が動くのを待っていたのである。
②恐らく、間欠泉があったのであろう。
(3)「三十八年も病気にかかっている人がいた」
①イスラエルの荒野の放浪期間にほぼ等しい。
②当時の平均寿命以上の年数である。
③古代の癒やし物語は、病気の年数によって、その素晴らしさを表現した。
4.6~7節
Joh 5:6
イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
Joh 5:7
病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」
(1)イエスは、最も悲惨な人を選んだのであろう。
①イエスの目がその人に注がれた。
②イエスは、群衆の中にいる個人に目をとめられる。
*ニコデモ、サマリアの女、王室の役人
③イエスの知識
*超自然的なものなのか。
*観察によるものなのか。
*あるいは、噂を聞いたのか。
(2)イエスはなぜ、「よくなりたいか」と質問したのか。
①病人は、回復への意欲を失うことがある。
②さらに、病気の状態に逃げ込むこともある。
③この質問には、病人に希望の灯をともす力がある。
(3)彼の回答は、その心の状態を映し出すものである。
①彼は、「イエス」、「ノー」で答えていない。
②彼は、癒やされない理由を述べている。
③彼は、他者への批判のことばを語っている。
④責任転嫁が彼の習い性になっていた。
5.8~9節
Joh 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
Joh 5:9すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。
/ところが、その日は安息日であった。
(1)イエスは、自分で行動を起こすように命じた。
①イエスの癒やしは、肉体だけでなく、内面の癒やしも含む。
②ここでは、癒やしを受ける側の信仰は問われていない。
*公生涯の後半に入ると、信仰が癒やしの条件になってくる。
(2)「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」
①神のことばに従うなら、神はそのことばを通して働かれる。
②その人の筋肉はすぐに回復された。
③この癒やしは、イエスのメシア性を証明する奇跡である。
*イザ35:1~7(足の萎えた者の癒やし)
④エルサレム中の人たちは、この奇跡を目撃することができた。
⑤イエスがこの人を選んだ理由は、そのことなのかもしれない。
(3)「ところが、その日は安息日であった」
①安息日について(出20:8~11)
*安息日は、休息の日である。
*安息日は、【主】に感謝する日である。
*安息日は、自由の民となったことを記念する日である。
②口伝律法による安息日の理解
*イエス時代には、安息日の規定が1500以上も存在した。
*安息日は、ユダヤ教の初期の段階で、擬人法化された。
*安息日は、「ヤハウェの女王」であり、「イスラエルの花嫁」である。
③イエス時代のパリサイ人の教え
*すべてのユダヤ人が安息日を完全に守ったなら、メシアが来られる。
④イエスとパリサイ人の論争が起こるのは、当然のことである。
Ⅱ.パリサイ人たちの敵意(5:10~18)
1.10~11節
Joh 5:10
そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。
Joh 5:11
しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」
(1)「きょうは安息日だ。床を取り上げることは許されていない」
①ユダヤ人たちとは、宗教的指導者たちのこと。
②反発の理由は、その人が安息日の規定に違反したから。
*彼らは、癒やされた人を見るのではなく、律法違反に目をとめた。
③安息日に、物をある領域から別の領域に運ぶことは禁じられていた。
*公の場から私的場へ、私的場から公の場へ
*この場合は、私的場から公の場に運ばれた。
*特に、床を運ぶことは厳しく禁じられた。
(2)この人は、死の危険に直面した。
①彼は、言い逃れのことばを語った。
②自分を癒やしてくれた方に、責任をなすりつけている。
2.12~13節
Joh 5:12
彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」
Joh 5:13しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。
(1)この人は、イエスに関する知識が全くない。
①この癒やしは、一方的な恵みによるものである。
②肉体の癒やしは起こったが、魂の癒やしは起こっていない。
3.14~15節
Joh 5:14
後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」
Joh 5:15
その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。
(1)イエスがこの人を見つけてくださった。
①イエスは、魂の癒やしを与えようとしている。
(2)「もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪い事があなたに起
こるかもしれない」
①「罪を犯し続けてはなりません」という意味である。
②一般的な意味で、罪は病と死の原因である。
③しかし、特定の病を罪の結果と言ってはならない。
④この人は、癒やされてからも罪を犯し続けていた。
⑤この人に、イエスからの警告が与えられた。
*38年の病気以上の悪いこととは、永遠の苦しみのことである。
(3)この人は、ユダヤ人たちに密告した。
①感謝の思いから出たことではなく、これは、責任逃れたための行為である。
4.16~17節
Joh 5:16
そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
Joh 5:17
イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
(1)反発の矛先はイエスに向かう。
①安息日に癒やしを行った。
②癒やされた人に、床を運ばせた。
(2)「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いてい
るのです」
①確かに神は、天地創造の後も、宇宙の運行を支えておられる。
②すべての生き物は、神によってその命が保たれている。
(3)イエスは、神を「わたしの父」と呼ばれた。
①ユダヤ人たちは、神を「私たちの父」を呼んだ。
②「わたしの父」という呼びかけは、父と対等であるという意味である。
③これは、イエスの神性宣言である。
④ユダヤ的理解では、長子は父と同格と見なされる。
⑤ユダヤ人の指導者たちは、それを理解した。
⑥「イエスは、自分が神だと言ったことはない」というのは嘘である。
5.18節
Joh 5:18
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
(1)イエスに対する殺意が、初めて登場する。
①安息日違反
*イエスがメシアであるなら、安息日を守るはずである。
②神への冒涜
*神を自分の父と呼んだ。
結論
1 .祭りの名前が出てくる箇所
(1)2:13(過越の祭り)→十字架の死と復活への言及
(2)6:4(過越の祭り)→パンの奇跡
(3)7:2(仮庵の祭り)→聖霊傾注の預言
(4)10:22(宮きよめの祭り)→ユダヤ人の霊性は冬の状態
(5)11:55(過越の祭り)→神の子羊イエス
2.5:1の祭り
(1)どの祭りかは重要な要素ではない。
(2)重要な真理
①イエスは、メシアとしての奇跡を行われた。
②イエスは、父と同じように安息日でも働きを継続される。
③イエスは、自分と神と等しいとされた。
3.5章の病人と9章の盲人の対比
(1)古代文学には、対比によって論点を鮮明にするという特徴がある。
(2)共通点
①ともに、癒しを受けた。
②ともに、恵みによる癒しであった。
③ともに、イエスによって見い出された。
(3)相違点
①5章の病人は、癒しを受けただけで、信仰に至っていない。
*責任転嫁
*イエスから警告を受けた。
*その後で、イエスについて密告している。
②9章の盲人は、信仰に至っている。
*事実を証言し、そのための犠牲を払っている。
*その後、イエスに見い出された。
*ヨハ9:35~38
Joh 9:35
イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
Joh 9:36
その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」
Joh 9:37
イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」
Joh 9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。
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