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ヨハネの福音書(15)いのちのパンの説教(1)ヨハ6:22~40
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いのちのパンの説教について学ぶ。
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ヨハネの福音書(15)
いのちのパンの説教(1)
ヨハ6:22~40
1.文脈の確認
(1)前書き(1:1~18)
(2)イエスの公生涯(1:19~12:50)
①公生涯への序曲(1:19~51)
②初期ガリラヤ伝道(2:1~12)
③最初のエルサレム訪問(2:13~3:36)
④サマリア伝道(4:1~42)
⑤ガリラヤ伝道の再開(4:43~54)
⑥2度目のエルサレム訪問(5:1~47)
⑦後期ガリラヤ伝道(6:1~7:9)
*第4のしるし:5,000人の給食(6:1~15)
*第5のしるし:水上歩行(6:16~21)
*いのちのパンの説教(6:22~59)
*説教への応答(6:60~7:9)
2.注目すべき点
(1)「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(ヨハ1:17)
①5,000人の給食は、「恵み」の成就である。
②いのちのパンの説教は、「まこと」の啓示である。
(2)イエスは、「比ゆ」を用いてご自身の本質を教えられた。
(3)いのちのパンの説教は、3つのグループに語られた。
①3つの異なった場所で語られたと考えられる。
3.アウトライン :いのちのパンの説教(1)
(1)イエスを捜す群衆(6:22~25)
(2)群衆に対するイエスの応答(6:26~34)
(3)いのちのパンのたとえ(6:35~40)
4.結論:第1の神性宣言
いのちのパンの説教について学ぶ。
Ⅰ.イエスを捜す群衆(6:22~25)
1.22節
Joh 6:22
その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
(1)群衆はベツサイダの近郊にとどまっていた(湖の北東)。
①イエスと弟子たちは、すでにカペナウムに移動していた(湖の北西)。
②群衆は、弟子たちが一艘しかない小舟で移動したことに気づいた。
③つまり、イエスはまだ近くにいると判断したのである。
2.23~24節
Joh 6:23
すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
Joh 6:24
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
(1)群衆がいた場所に、ティベリア(湖の西)から数艘の小舟がやって来た。
①群衆は、イエスも弟子たちもその近辺にはいないと判断した。
②そこで、ティベリアから来た小舟数艘に乗り込み、カペナウムに向った。
③カペナウムは、イエスと弟子たちの活動の本拠地である。
3.25節
Joh 6:25
そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
(1)群衆は、カペナウムでイエスを見つけた。
①彼らは、イエスがどのようにしてカペナウムに来たのかを知りたがった。
②ヨハネは、イエスが湖の上を歩いて移動されたことを強調している。
③イエスは、パンを食べて満腹した人たちに答える。
④イエスの教えは、十字架の死を前提としたものである。
⑤私たちの立ち位置は、このときの群衆の立ち位置よりも恵まれている。
Ⅱ.群衆に対するイエスの応答(6:26~34)
1.26節
Joh 6:26
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
(1)イエスは、彼らの質問には答えない。
①湖の上を歩いて移動したとは言わない。
②イエスは、彼らが後について来ることを喜ばなかった。
③彼らの興味は、イエスにではなく、パンにあった。
④今日でも、物質的祝福を得ようとしてイエスに近づく人がいる。
⑤物質的祝福よりも、主イエスを知ったことを喜ぶべきである。
2.27節
Joh 6:27
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
(1)イエスの比ゆ的ことば
①サマリアの女には、「生ける水」(4:10、14)の話をされた。
②ガリラヤ人たちには、「永遠のいのちに至る食べ物」の話をされる。
③イエスは、肉体の糧と霊の糧を対比される。
④食事は重要であるが、それが人生の優先事項になってはならない。
⑤肉体的満たし以上に大切なのは、霊的満たしである。
⑥「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」。信じるということ。
(2)イエスが与える食べ物は、永遠のいのちに至る食べ物である。
①イエスは、「人の子」(メシア)である。
②5,000人のパンの奇跡は、イエスが神であり人であることを示した。
③「証印」は真正さの証明である。イエスは、父の代理人として行動している。
④それゆえ、イエスの行いや教えには、権威がともなっている。
3.28~29節
Joh 6:28
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
Joh 6:29
イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
(1)彼らは、イエスのことばを誤解している。
①イエスは霊の糧の話をしているのに、彼らは肉の糧のことを考えている。
②彼らは、努力によって「神のわざ」を行うことができると思っている。
③わざによって救いに貢献するということは、罪人が求めることである。
(2)イエスは、神が要求するわざとは、信じることであると教える。
①信仰の対象は、神が遣わした者、つまりイエスである。
②救われた者だけが良いわざを行うことができる。その逆ではない。
4.30~31節
Joh 6:30
それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
Joh 6:31
私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
(1)彼らは、イエスを信じるためのしるしを求めた。
①前日に体験したパンの奇跡では不十分である。
②彼らの要求は、とどまるところを知らない。
③彼らは、見たなら信じるというが、順番が逆である。
(2)彼らは、モーセが荒野で与えたマナ以上の食べ物を要求した。
①背景には、メシアはマナの奇跡を更新するというユダヤ人の期待があった。
②イエスは、地上のパンを増やしたが、天からのパンを与えたわけではない。
③詩78:24~25参照
5.32~33節
Joh 6:32
それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
Joh 6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
(1)イエスは、モーセが天からのパンを与えたのではないと教えた。
①彼らは、モーセこそ祝福の源であると考えていた。
②モーセの死とともにマナの供給は止んだと考えていた。
(2)イエスは、マナを与えた神は、今や新しいパンを与えてくださると教える。
①イエスは神を「わたしの父」と呼ばれた。
②マナは、食べればそれで終わりである。
③新しいパンは、「天からのまことのパン」である。
④それは、人間に永遠の満足を与えるパンである。
⑤ユダヤ人だけではなく、世(全人類)にいのちを与えるパンである。
6.34節
Joh 6:34
そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
(1)イエスのことばは、彼らを動かした。
①サマリアの女は、「その水を私に下さい」(4:15)と言った。
②ガリラヤ人たちは、「そのパンをいつも私たちにお与えください」と言った。
③彼らは依然として肉の糧のことを考えている。
④イエスは、そのパンとは自分のことであると宣言する準備ができた。
Ⅲ.いのちのパンのたとえ(6:35~40)
1.35節
Joh 6:35
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
(1)イエスはパンではなく、ご自身を差し出された。
①イエスのもとに来ることと、イエスを信じることは、同じ意味である。
②イエスこそ魂に永遠の満たしを与えるお方である。
③「わたしがいのちのパンです」は、イエスの神性宣言である。
2.36節
Joh 6:36しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
(1)しかし、ガリラヤ人たちは、イエスを見ているのに信じない。
①エルサレムのユダヤ人たちが信じなかったのと同じである(5:36~38)。
②だからと言って、神の計画が失敗したわけではない。
3.37節
Joh 6:37父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
(1)信じる者には、父なる神の恵みが強く働いている。
①神の恵みによって選ばれた者はみな、イエスのもとに来る。
②個人的な決断の背後に、神の選びがある。
(2)「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」
①これは、修辞的ことばである。
②肯定的なことを強調するために、否定的な表現を用いる。
*「これは小さな問題ではない」という表現と同じである。
③自分が選ばれているかどうかを知る唯一の方法は、信じることである。
4.38~39節
Joh 6:38
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
Joh 6:39
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
(1)イエスの生涯は、ベツレヘムの家畜小屋から始まったわけではない。
①イエスは永遠の昔からおられるお方である。
②イエスは、天から下って来た。
③その目的は、父なる神のみこころを行うためである。
④イエスの思いは、父なる神の思いと完全に合致している。
(2)父なる神の御心
①イエスは、父なる神から与えられてすべでの信者を守られる。
②普遍的教会に属するすべての者は、救いを失うことがない。
③イエスは、すべての信者を「終わりの日」によみがえらせる。
④「終わりの日」とは、携挙の時である。
*主イエスは栄光とともに空中に戻って来られる。
*すでに死んだ者たちは、復活のからだを与えられる。
*生きている者たちは、栄化されて生きたまま天に挙げられる。
5.40節
Joh 6:40
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
(1)父なる神の御心
①御子イエスを見る(霊的に主イエスの本質を理解する)。
②イエスを救い主として信じる。
③信じた人は、永遠のいのちを持つ。
④イエスは、信じた人を終わりの日によみがえらせる。
結論:第1の神性宣言
1.「わたしがいのちのパンです」(6:35、48)
(1)「I AM」宣言
(2)イエスは、いのちを支え、満足を与える方である。
(3)イエスは、パンではなくご自身を差し出された。
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