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マタイの福音書3:11 ~ 12

11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマをさずけていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものをがせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

12 手にを持っておられ、ご自分の脱穀場だっこくじょうをすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、からを消えない火で焼きくされます。」

メシアの描写

ヨハネが語るメシア像

ヨハネは、まだ出会っていないメシアについて預言的言葉を語る。(1)メシアは自分よりも力のあるお方で、自分にはそのはきものを脱がせてあげる値打ちもない。つまり、奴隷として仕える値打ちもないというのである。(2)自分が授けている水のバプテスマ(悔い改めのしるし)と、メシアがお授けになるバプテスマとを比較している。メシアのバプテスマは、一つではない。「聖霊と火」によるバプテスマである。
「聖霊と火によって」とは、どういう意味なのか。メシアは手に箕を持ち、脱穀場をすみずみまで清める。つまり、本物と偽物にせものを選別されるということである。麦とは「メシアを信じる者」、殻とは「不信仰者」のことである。麦が収められる倉とは「神の国」ことで、消えない火で焼き尽くされるとは「火の池に投げ込まれる」ことである。つまり、信じる者には聖霊によるバプテスマを授けて、神の国に入れ、信じない者には火のバプテスマを授けて、地獄に投げ込むということである。すべての人が、メシアからこのいずれかのバプテスマを受けることになる。
聖霊によるバプテスマについて、パウロはこう書いている。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(1 コリ12:13)。人はイエスをメシアと信じた時に聖霊によってバプテスマされ、キリストのからだである普遍的教会の一員とされる。いわゆる「聖霊のバプテスマ」(聖書にはそのような名詞形の用語はないが)は、イエスを信じたすべての人がすでに経験していることである。

先駆者とメシア

これで、調査の第一段階が終わった。これ以降、バプテスマのヨハネは迫害に会い、殉教じゅんきょうの死をげることになる。ここで注目しておくべきテーマは、「先駆者せんくしゃに起こる事は、メシア(神の国の王)にも起こる」ということである。ヨハネの死は、メシアの死の予表である。これ以降マタイは、神の国の王として来られたメシアが、どのようにして受難じゅなんの道を歩まれたのかを記していく。福音書を読むことは、メシアとともに受難の道をたどることでもある。クリスチャンの最終ゴールは、この世で成功を収めることではなく、神の御心に忠実に歩むことである。自らの人生のゴールを再吟味し、永遠に続く価値あるものに向かって前進しようではないか。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私に聖霊によるバプテスマを授け、神の国の一員としてくださったことを心から感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エレミヤ書16~17、コリント人への手紙 第一14